1
古びた黴臭い教室に、白墨(チョーク)が黒板を殴る音がからからと響いている。室内はとても殺風景だ。そこには三十脚の机と三十人もの他人が押し込められている。漆黒の学生服を着た生徒は、それぞれ雑談や漫画雑誌などの内職に夢中だ。
紅南瓜は南瓜頭の上からヘッドホンを装着している。音楽を聞きながら教室を眺望する。学院に籠もって閉塞していると気がつかないが、この光景は客観的に見ればかなり異常だと思う。
そんな現実逃避的な思考を弄びながら紅南瓜は窓を見やる。窓枠に填められた玻璃には大きな亀裂が走っており、そこを梱包用(ガム)テープが補強していた。その接着剤の塗られた茶色い技巧紙(クラフト)の向こう、窓からほんの半米突足らずの距離に聳立しているのは高層大廈の青黴で汚れた壁面だ。
紅南瓜の住んでいる街は長嘯(ちょうしょう)と言う。長嘯は地下鉄を終点駅から四駅上ったところにある繁華だ。絳桃星最大の都市と言っていい。その一郭をなすこの荒んだ大廈群は、かつての九龍(カウロン)城塞に並ぶ魔窟と言われている。麻薬、賭博、売春などが我が物顔で横行し、深刻に治安が悪かった。
平均十五から二十階建てのこの大廈群は、殆どが混凝土製の剛節架鋼(ラーメン)構造である。数百に昇る高層建築物の塊は尋常でない圧迫感を見る者に与えた。その原因は異常な建築方式にある。独立した大廈と思っていたのが実際は隣接した大廈から増設されたものだったり、大廈と大廈が壁面を共有していたりするのだ。
全体的に、大廈群の下層部は通路も階段も複雑に錯綜していて、宛ら迷路(ラビリンス)のようである。一階あたりの高低が微妙にずれているのがそれに拍車をかける。紅南瓜も長嘯に在住して長いのだが、悪戯に領域(テリトリー)外を出歩く気には到底なれなかった。
このように下層部が錯綜している分、上層部は増築し難かったせいか構造が単純だ。それでも隣接した大廈間に通路が架設されていたりするのは御愛嬌だろうか。基礎工事が好い加減だから、大地震でも来れば一瞬で崩壊してしまうだろう。
紅南瓜が在籍している雑劇学院は、その中でも比較的に広大な敷地内にある。主要な施設は全て、一つの雑居大廈の中に収められていた。学校と言うより、大仰な学習塾のようなものだと思う。建物内には学生用の寮や龍宮粥麺のような学食設備もあるが、辺鄙なことに変わりはなかった。唯一の自慢が二階までをぶち抜いた劇場である。
この雑劇学院に入れられて、別段崇高な志があったわけでもなく、容姿が特別秀麗なわけでもない紅南瓜が劇作家の道を選択したのは自然の流れであった。そしてそれは義兄の鑑文升にしても同様だったろうと思う。
鑑文升の実父、紅南瓜の義父は雑劇学院の卒業生である。一方、紅南瓜は自分の実父のことは余り知らない。南瓜歌星と離婚して以来、黒社会の中で生計を立てているらしいが、物心ついて以来一面識もなかった。当の母親も話題に出さない。
──まあ、どうでもいいんだけど。
落書の彫刻で凸凹になった木机に突っ伏したまま、紅南瓜は胃酸で焼けた喉を気にする。昼食を全部吐瀉してしまったのに、何故か空腹感は感じなかった。あの時の、麺に対する飢餓感は一体何だったのだろうか。結局、十八人前もの麺食品を献上してきた差出人の正体は判明しなかった。そこに盛られていた黒ずんだ異物の正体もだ。蟲のように見えたそれは、ただの無機物だった。
2
その一件が脳裏を過ぎるだけでも鬱々とする。早退してもよかったが、雑劇学院側に理由を説明するのが鬱陶しくて授業に残った。鑑文升は、昏倒した紅南瓜のことを放置して何処かへ消えた。授業には出席していない気がする。探偵気取りで差出人の素性を調査しているのだろう。多分、その正体を幾らか掴んでいるのだ。
紅南瓜は窓から視線を逸らした。そうして遠く斜め右前方にある木製の教壇を眺め遣る。よれよれの格好をした中年の女教師が、そこで話劇の歴史的展開について講義していた。分厚い黒縁眼鏡を、滴が浮きあがるほどに曇らせたこの女教師の名を黄玉卿(こうぎょくけい)と言う。
黄玉卿は、大きな中華風の人形を抱えていた。人形は中華婦人服(チャイナドレス)を纏っている。この中華婦人服は、熟れた桃色の絹地に銀(シルバー)で鳳凰を刺繍したものだ。広げられた両翼が豪奢である。黒髪を団子にし、唐傘を差したこの人形は、草臥れた様子の黄玉卿とは不釣り合いなくらいに綺麗だった。
何となく理由が解る気もするが、この黄玉卿は教師の中で孤立しているらしい。ある噂によると、代理学院長に東区で葉巻(シガー)を購入して来いと言われ、本当に買いに行かされたことがあるらしかった。
そんな真偽不確かな風聞が伝達して、黄玉卿は生徒にまで虚仮にされていた。授業を聞いている者は皆無に等しい。だが、これはこの授業に限った話でもなかった。今の雑劇学院では真面目に授業を聞こうなんて生徒はそもそもいないのだ。頽廃している。
その黄玉卿が、徐に黒板から白墨を離した。斜めに歪んだ黒板を背後に背負い、徐に教科書(テキスト)を畳み始める。南瓜頭の表面を響かせている音楽に、広東語が重なった。
「──知っている人もいると思いますけれども、貴方達にはこれから毎日二時間、六週間の間放課後まで残って貰います」
『前にも玉卿が言っていたように、上級生の卒業課題を見てその感想文を書いて貰うんだよね』
可愛らしい声がそう答えた。しかし教壇にあるのは女教師だけだ。その黄玉卿は、中華人形に視線を落とし、そうね小姐よく覚えていたわねと語りかけていた。腹話術をしているのだ。幾ら生徒が授業を無視しているからとは言え、病んでいる。異常だ。
「その上級生には、一つの題材から十分間の簡易演劇を創作して貰いました。その題材は何かと言うと、持ってきたのですけれど、古代欧州(ヨーロッパ)の有名な絵画です」
『絵画? 一体どんなものなのかな。早く見せてよ玉卿、早く見せてよ玉卿』
身体を揺らせて催促をする怪しい中華人形を傍観しながら、紅南瓜はつらつらと思った。この課題は、きっと鑑文升が言っていたもののことだ。鑑文升は確か、留年生なこともあって初日に発表するはずだった。つまり今日の放課後である。
焦らないで少しは我慢なさいと宥めながら、黄玉卿は紙袋から布に包まれた額縁を取り出していた。教卓の上に載せ、丁寧に布を取り去る。そして、これは「鞦韆(ブランコ)」と言う有名絵画の石版画(リトグラフ)だと言って絵を紹介した。
その画布(キャンパス)には、森林園の景観が描出されていた。木陰が複雑な幾何学模様を作っている。紺青のリボンをつけた婦人服の女性が、大樹に設けられた鞦韆の綱を持っていた。麦藁帽子の青年に何かを喋りかけられて、はにかんだような表情をしている。それを口髭を蓄えた男性と少女が見遣っていた。寒色と暖色の対照が鮮麗である。
『わあ! 何て素敵な絵なんだろう。この絵の作者はルノワールって言うんだよね。正確にはピエール・オーギュスト・ルノワール。あたしはこの作者の詳細が知りたいな』
「いいでしょう。小姐がそう言うのなら、簡単な略歴を紹介しましょうね」
そんな一人問答をしながら、黄玉卿は白墨で汚れた黒板を指し示している。大學帳面(ノート)に目を落としながら、つけ焼き刃が丸見えの講釈を始めた。
紅南瓜は絵画のことは余り知らないが、ルノワールなら多少造詣があった。確か印象主義の代表格なのだったと思う。一瞬知識をひけらかして生徒中から脚光を浴びる妄想をしたが、すぐに興味を失って窓を見た。
3
「──巴里(パリ)の小さな陶磁器工場で絵付師として修行を積んだ彼は国立巴里高等美術学校に入学しました。そこの同門と共に自然光の元で絵を描いたのが、印象主義の雛形となったと言われていますね。彼等は、権威的な展覧会(サロン)に対抗するため個展を企画しました。その時は批評家達に莫迦にされていた印象主義ですけれど、これが徐々に人々に浸透して行くのです。その一方、自分の作風に疑問を持った彼は伊太利亜(イタリア)への旅に出ました」
『へえ。順風満帆かと思っていたら、ルノワールも結構な苦労をしていたんだねえ』
中華人形がそう驚きの声をあげた時、紅南瓜は視線を玻璃から逸らした。教壇を見れば、印象主義について板書された黒板がぽつねんと残されている。黄玉卿は教壇を離れて机の間を闊歩していた。
「そこで古代羅馬(ローマ)や文芸復興(ルネサンス)美術に触れたルノワールは、作風が印象派の温かさと古典主義の気高さが融合された後期のものへと変化しました。彼が結婚したのはこの頃ですね。幸福の絶頂だったはずのこの時に僂麻質斯(リウマチ)にかかってしまった彼は、療治のために南仏蘭西(フランス)のリビエラ海岸に移りました。痛風も患い筆を持つのも苦痛を伴ったのに、彼はそこで晩年までも絵筆を握る日々を続け、七十八歳の生涯を閉じました……」
講義をしながらも黄玉卿は歩く。その黒縁眼鏡越しの双眸は、確実に紅南瓜を見据えていた。それで漸く危険を感じる。紅南瓜は慌てて本体からヘッドホンのプラグを抜いた。
他にも内職をしている生徒はいるのに、何故自分なのだ。教師の理不尽な行動に憤然としながら机にかけた鞄を引っ手繰ると、南瓜型の装飾品がかちゃかちゃと騒音を立てた。しかし、寸前のところでその手を捕まれた。痛みと同時に、中華人形の硝子で出来た双眸が視野に入る。掴んでいたのは、その中華人形の作り物の手だ。顔をあげると黄玉卿が南瓜頭の蔕を見おろしていた。
「紅南瓜、さっきから貴方は何をしているのですか? 筆箱を出そうとしていたじゃあ通じませんよ」
「──私は、何も……」
そうは言ったものの、南瓜頭にヘッドホンを装着したままだから紅南瓜の言葉に説得力など全くない。全生徒の関心が、こちらに集中しているのが解った。中華人形が、かくかくと団子頭を振って嘆息する。
『ああ、何だかまるで反省の色がないみたいだね、この南瓜女は。やっぱり玉卿は甘いよ。内職すれば問答無用で没収しなくっちゃあ』
「私はちゃんと授業を聞いてました」
『またそんな見え透いた嘘を。だったらルノワールの略歴をもう一度教壇に立って抗議してみたらどうなのかしら』
「──それは」
『ほらやっぱりね。出来ないんじゃない』
違う。出来なくはない。授業は全て音楽越しに聞いていた。ならば内職をしている意味がないのだが、集団の同調圧力に弱い紅南瓜はそんな中途半端なことしか出来ない。しかし、態度はどうであれ授業は聞いていたのだ。聞いていなかった人間ではなく、紅南瓜が叱責されるなんて理不尽の極みである。
その瞬間、紅南瓜は自分が他生徒への見せしめのため、生贄(スケープ・ゴート)にされたのだと悟った。何故に王憶蓮なのかと言えば、要するに地味で怖くないからだ。耳鳴りと共に苦い劣等感が強くなる。机の彫刻を睨みながら黙っていると、黄玉卿が肉づきのよい顔面を顰めた。
「ふう。困りましたねえ」
『困ったじゃないよ玉卿。これは往生際が悪いって言うんだよ。本当残念だね、この娘もあの劣等生の鑑文升と同類だったんだ。地味を装っている不良が一番質が悪いんだよ』
4
蕾のような紅唇は閉じたまま、中華人形がそう断定した。一々黄玉卿のほうへ向き直るところ、芸が細かくて鬱陶しい。そして、その語られた内容に対して紅南瓜は憤然としていた。南瓜頭を俯け、教師と視線を逸らしたままで陰気に反論する。
「何故、ここに義兄が出て来るんですか」
「──な、何ですって?」
「黄先生がそんな公私混同な誹謗中傷をするんだったら、私だって黄先生のことでこんな噂を聞いたことがありますよ」
噂、と呟いて黄玉卿は少しだけ狼狽した。片手に抱えた中華人形がだらりと垂れる。中華婦人服の刺繍に皺が寄った。紅南瓜は南瓜頭に薄ら笑いを浮かべながら、その女教師の黒縁眼鏡を一瞬覗く。
「黄先生は教員の中で孤立しているんでしょう? 言ってみれば村八分。奴隷みたいな雑業を押しつけられているって聞きましたよ」
言った途端、この一連のやり取りを面白半分で傍聴していた生徒から、疎らな失笑が漏れた。何とも快い気分である。溜飲が下がるとはこのことだ。しかし、次の瞬間紅南瓜は、女教師の顔色が変貌するのを見て取った。血の気が退いて蒼白になるのを見るにつけ、胸郭にさっと後悔の念が沸き起こる。罪悪感が怒濤のように押し寄せった。
言い過ぎた、と思った。
入ってはいけない境界を侵してしまった。
黄玉卿が教員達に阻害されているのは、他人から見れば笑い話だが、当事者してみれば深刻な職場虐め以外の何者でもなかった。その人間としての矜持を、他人で十六歳の小娘が嘲弄していい道理はない。
「──あの」
紅南瓜が何か言い訳をして自己正当化をしようとすると、行き成り黄玉卿が中華人形を閃かせた。南瓜頭に衝撃が伝わる。気がついた時、紅南瓜は蜜柑色の右頬に鈍痛を感じながら椅子の背凭れに仰け反っていた。中華人形で殴られたのだ。教室の空気が凍りつく。
痛い。何故こんな目に遭わなくてはいけないのだ。倫理観なんか一瞬で掻き消える。紅南瓜は激痛に対して激しいむかつきを感じた。衝動的に黄玉卿の野暮ったい顔を睨みあげる。
「きょ、教師が暴力を──」
言いかけたところで、黄玉卿が再び中華人形を閃かせて、今度は木机を殴った。その中華人形の首は、強烈な負荷を与えられたせいで奇妙な形に歪んでしまっている。桃色に染まった頬が歪な印象だ。それで、紅南瓜の威勢は殺がれた。
「酷い。酷すぎます」
上擦った声をあげながら黄玉卿は教室を眺望した。感情が高ぶったのか、醜い涙を流している。全員が普段激昂することのない教師の変貌に驚愕し、木机に伏せていた。
「誰も授業を聞かないのは、確かに私にも責任があるのでしょう。改善をしなくてはいけないと何時も反省の繰り返しです。だけど、私は貴方達だけは信じていたのに──!」
黄玉卿はその有り難迷惑な妄想を裏声でそう言うと、無言で教壇に戻っていく。そしてルノワールの「鞦韆」と話劇の歴史教科書を丁寧に纏め、教室を出て行った。門扉を閉める時に盛大な音を立てるところなど、まるで児戯のようだ。
その際に、一瞬中華人形の頭が門扉の間に挟まった。すぐに黄玉卿がそれを引っ張って消えてしまったが、その間に見せた、中華人形の虚ろな表情は紅南瓜の脳裏に焼けついて消えなかった。廊下から、痛いよ痛いよ、と言う中華人形の声と、謝る黄玉卿の声が聞こえてくるのが恐怖を誘う。
呆然としながら眺望した教室内の負の空気は、全て自分に向けられていた。胃酸に焼けた口内の不快感がぶり返す。中華人形に殴られたところに鈍痛が走っていた。
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