WEB小説「憂鬱を育む蟲」~第二章、蚕で編まれた黄金5~

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 複雑に入り組んだ窮屈な廊下は、さながら迷宮のようだ。無秩序にそれは錯綜をしている。そして異様だったのは屋内にも関わらず、うっすらとした霧が立ち込めていることだ。それが言いようのない異界感を醸し出している。

 停電によって暗闇に閉ざされたその廊下には警備員が倒れ込んでいる。そのままぴくりとも動く様子が見られない。口を大きく開け、涎を垂らしていた。

 床に陣取った浮浪者の集団は目を見開いたまま意識を失い、重い静謐だけがその空間を支配しているようだ。壁面に貼りつけられた風俗の貼り紙の中で、不細工な女が微笑んでいた。

 葉頴達は眼前を睨んだ。そこには非常灯に照らされて頼りない景観が広がっている。一寸先が闇なのだ。その非日常的な景観に、霊感はないが、変な妖気とでも言うべきものを肌で感じた。

 葉頴達は今、下の階にいた。ここの非常扉は閉まっていなかったのだ。そのまま、急いで廊下を昇降機まで駆け寄ると、昇降機の駕籠は開きっぱなしになっていた。室内の蛍光灯の光が漏れ出ている。立ち止まって眉を顰めた。

 何だってここだけ電気が通っているのだろう。電気系統の配線の繋がりが、無茶苦茶なのだ。大廈の無秩序な乱立の結果がこの有様である。

 そしてこの駕籠の中を見て、葉頴達は少し考え込んだ。駕籠の中には胡蝶の鱗粉が振りまかれていたのだ。するとこれは、あの壺に入った戴夢周の乗っていた駕籠だ。一体何処へ消え去ったのだろう。

 ──怪しい、怪しすぎるぞ。

 葉頴達は不審に思いながらも駕籠に乗り、試すつもりでボタンを押してみた。すると門扉が閉じ始める。何だか知らないが昇降機は生きているようだ。少しは不安だったがそのまま十四階を押して、山高帽子の鍔越しに表示盤を見上げる。昇降機はゆっくりと上昇を始めた。

 昇降機に乗りながら、今起こった偶然に対して他人事のように驚いていた。まさかあんなところで自分の娘に出会すとは。確かに雑劇学院に所属しているとは聞いていたが、全くの不意打ちもいいところだ。王憶蓮は、その母親と全く同じ南瓜提灯を被っていたので一発でそれと解った。

 ──でも、あんな奴が己等の。

 ひたすら責任を押しつけようとする態度が無性に癪に障った。自分とは決定的にあわなさそうな人間だ。何だか自分の負の面を増幅して見せつけられているような、嫌な不快感がある。だから、拳銃を押しつけてさっさと逃げてしまったのだ。

 それにしたって、確かに楊爵滋は王憶蓮が失踪事件に巻き込まれていると言っていたが、ここまで直接的な危機に曝されているとは想像もしていなかった。今にも殺されようとしているのだから。

 ──猿の仮面を被っている、か。正体を隠すためにしては奇天烈な仮面だな。

 するとその時、銃声が大廈中を轟いた。吃驚する。誰の銃声だ。王憶蓮が、それとも猿仮面が撃ったのだろうか? 少しずつ気分が高揚してくる。事態は只ならない緊迫感を帯びてきた。

 到着し、門扉が開くと同時に葉頴達は昇降機を飛び出した。そのまま廊下を走ろうとしたが、思いついたことがあったので後退した。蛍光灯の明かりが有り難かったので、門扉を昇降機の待合い席にとして設置されてあった長椅子で固定し、駕籠を空きっぱなしにさせる。

 昇降機の位置からは死角になった場所。転落防止用に張り巡らされた鉄索を乗り越え、不安定な足場でとても背丈の低い老爺がいる。老爺は地上に向かって塵袋を捨てている。

 白い縁取りをした毛皮の服と帽子に身を纏い、雪のような白髭を顔の下半分にこんもり蓄えていた。その姿は西洋の妖精を彷彿とさせる。老爺の双眸には、胡蝶の模様が浮かび上がっていた。

 香港では窓などからの塵捨てが日常行為となっている。この凵亂ではそれが特化していた。違法拡張された露台や、庇には、必ずと言っていいほど塵芥が汚していた。

 葉頴達はその姿を遠く眺めながら、辿り着いた隣接大廈の屋上を見渡す。屋上の中央は玻璃張りになっていた。玻璃には夜空の満月が映り込んでいる。それ越しに、遠く吹き抜けになった広間が濁って見えた。何かが蠢いている。どうやら、この広間はさっきいた大廈の十五階と繋がっているようだ。

 葉頴達はおっかな吃驚ながらもその老爺に近づいた。老人は気づいているのかいないのか、黙然と塵捨ての作業を続けている。

「あの」

 鉄索越しに声をかけると、老爺は漸く振り向いた。

「何をしているんですか」

「──見て解らんのかね? 塵を捨ているんじゃよ」

「塵捨てって……」

 それにしては何だかその老人の態度は懸命だった。葉頴達は呟きながらその塵袋を見る。薄く透けて見えた先に、何だかは不明だが奇妙に薄気味悪い固まりが見える。それを注視していると、老人が下界に向かって捨ててしまった。そして葉頴達を見やる。

「そっちこそ、こんな時間に何故雑劇学院などに来たんじゃ。君は雑劇学院の生徒かね? だったら悪いことは言わんから、さっさと自分の家へ帰ることじゃな。このまま屋上にいれば、見なくてもいいものを見てしまうかも知れん。それは何度後悔をしても取り返しのつかないものなのじゃ」

「…………?」

 葉頴達は頭を傾ぐ。一体、この老人は何を言っているのだ。訳が解らない。

「あ、あんたは一体誰だ」

「儂か? 儂は順桂分と言う。この大廈の管理人じゃ」

「管理人って……もしかして、失踪した学院長夫人の父親なのか? そうだ、管理人って言うのならあの昇降機のことが解るんじゃあないか」

「昇降機? 昇降機がどうしたのじゃ」

「あの昇降機に乗っていた時、変な壺が乗っていたんだ」

 葉頴達が必死にその時のようすを伝えようとすると、順桂分は事も無げにああ、と言った。

「あの昇降機は調子が悪いんじゃ。幻覚でも見たんじゃろう」

「幻覚って、そんな適当な……」

 順桂分は答えず、南瓜模様の鉄索を越えて屋上の内側に立った。それを見ながら、王憶蓮はつと思い出す。

「あ、ああそうだ。壺人間のことが解らないのなら、もしかしてこれを見たことがありませんか?」

 言って、葉頴達は懐中から紅南瓜に渡された蒴果を取り出した。すると順桂分の表情が一変する。哀れむようにこちらを見上げ、嘆息して白髭を震わせた。

「その蒴果は一体どうしたのかね? まさかとは思うが、誰かに見知らぬ人間に貰ったのじゃああるまいな」

「え、そうだけど……」

「──そうか、矢張りあんたもそうなのか。可哀想にな」

「それはどう言う意味なんだ。他にもこの蒴果のことを尋ねた人間がいるっていうことか?」

「まあの。それは確か、紳士帽子を被った太り気味の青年じゃったな。鼻がピノッキオのように高かった」

 ──誰だ?

 葉頴達は首を傾げる。しかし一方で不安にもなる。何故見ず知らずの老人にいきなり哀れまなければならないのだ。

 当の順桂分はふさふさの白眉の奥で視線を逸らし、トコトコと隣接大廈のほうへ帰っていこうとした。そして一度だけ振り向き、こう言った。

「小僧、あんたに一つだけ忠告してやろう。──命が惜しければ口に気をつけるんじゃ。それに今ならまだ間に合う、屋上から帰れ」

 そして鉄索まで廊下を走っていく。角を曲がった遠く先に、さっきと視点の違う鉄索を見ることが出来た。それを目指して一直線に走る。しかしそこには誰もいない。ねじ曲がった南京錠が佇んでいるだけである。鉄索をひっつかみ、揺さぶりながら不謹慎なくらい冷静に考えを纏める。

 王憶蓮は既に鍵を探しに行ったようだ。何となくこの鉄索の場所で立ち往生しているような気がしていたのだが、意外に窮鼠猫を噛む的なものがあるのかも知れない。

 それならと葉頴達も後を追う。暫く歩くと教務室が見えてきた。きっとここのことだろう。無造作に門扉を開けると、下の方からぼんやりと明かりが漏れている。何だろうと見てみれば、床面に付け放しの懐中電灯が落ちていた。

 ──何でこんなものが。

 不審に思いながらそれを拾い上げる。懐中電灯を握りなおし、教室に向けた。そしてその拡散された光の束によって照らし出した部屋の景観に驚いた。

 教務机に突っ伏し、数人の人間がそこにいたのだ。あまりに静かなので全く気がつかなかった。俯せになったまま、全く動く気配がないのは何故だろう。一瞬化物かと思って鳥肌が立ったが、何のことはない、雑劇学院の教員だった。

 葉頴達は驚いて近づいた。その内の一人に、化粧美人の女教師がいる。見事な鳳凰が刺繍された、緑色の中国婦人服を来ていた。その双眸は閉じられている。何だかその様子が不自然だった。

「おいあんた、一体どうしたんだ。停電が起きたんだぞ。気がついていないのか? そんな狸寝入りをしても無駄だぞ」

 そう言って肩を揺さぶるが、ぐにゃぐにゃと軟体動物のように揺れ動くだけでまるで反応が見られない。眉を顰めてその教師をよく観察すると、あることに気がついた。女は、微かな呼気を立てていたのだ。葉頴達はそれを見て唖然とした。

 ──眠っている、のか?

 すると他の教員達も同じなのだろうか。そう思いながら、懐中電灯と一緒に周辺を一望する。教務室は雑然としている。ここには何故か窓が全くなかった。郭鵬挙が言っていた、設計による欠陥のせいだろう。教務机に俯せになった人間達は、一様にその女教師と同じような反応を見せていた。呼気をたてて眠っているのだ。

 しかし何故、こんなところで大の大人が固まって眠っているのだろうか。

 もう一度女教師の要望を観察する。睡眠中にしては様子がおかしい。顔色が妙に悪い。それはまるで仮死状態のようだった。もしかすると、この異様な静けさの原因はこれなのかも知れない。

 無造作に室内を散策している途中、何か弾力性のあるものに躓いた。わっと驚いて懐中電灯の光線を下に照らしつけると、そこに南瓜頭をした女学生が倒れていた。漆黒の学生服に大きめの木靴、それは王憶蓮だった。葉頴達は南瓜の顔面を蹴りつけてしまったようだ。

「お、憶蓮? 何だってこんなところで寝転がっているんだよ。顔面いってしまったじゃないか。鼻血出てないだろうな」

 しゃがみ込み、南瓜頭に向かって話しかけると王憶蓮は短く呻いた。予想通りだ。他の人間と同じく、意識が朦朧としているらしい。一体この症状は一体何なんだ。何故集団で起きる。

 魘されている王憶蓮を見やりながら、葉頴達は腕を組む。どう考えたってこら一連の出来事は人為だ。停電も、この異変も猿仮面の仕業に違いない。

 そう確信をし始めたとき、がくりと頭が落ちた。何だ、と自分に驚いて周辺を見回していると、更に頭がたれた。急激に意識が遠のいていく。そして疑念が一つの形を取り始める。

 ──う、

 不味い、と気がついた時にはもう手遅れだった。葉頴達は激しい睡魔に襲われている。重たくなる瞼を必死に見開き、懸命に意識を保とうとしていると、教室の外から物音が聞こえた。

 見上げた先には猿の仮面を被った人間が立っている。その猿仮面は葉頴達のことを哀れむように見下ろしていた。翻る真紅の外套が暗闇に馴れた双眸に焼け付いた。

「お、御前が猿仮面か」

 葉頴達は漸くのことでそれだけを言った。こいつが王憶蓮の言っていた追跡者なのだろうか。それを見届けた瞬間、力が抜けて転倒した。地面に背骨をぶつけ、そこに軽い鈍痛が走った。

 仰向けに倒れたせいで猿仮面がよく見えない。視線の先に見えた天井に、換気口が覗いている。その換気口の編み目模様を見て漸く気がついた。そこから漏れ出ているのはもくもくと沸き立つ白濁した雲だ。自分の浅はかさが嫌になる。

「──さ、催涙ガスか……何考えているんだよ御前は」

「さて、どうだろうね。催涙ガスだろうが何だろうが、想像を逞しくするのはそちらの勝手だ」

 猿仮面が葉頴達ではなく王憶蓮を見下ろしながらそう言った。葉頴達は確信した。この虚仮威し的な猿仮面は人相を隠すためだけじゃあない。ガスマスクだったのだ。まるでテロリストのような重装備である。狂っている、と思った。

 それにしても猿仮面の態度は不思議に淡々としている。何か、しなければならないから仕方なくしているとでも言うようなものを感じた。不思議なことに知性までも感じ取れるのは何故だろうか。

 このまま眠ってはいけないと思い、葉頴達は縺れる舌を必死で回転させた。

「な、何故こんな事をするんだ。こんなどうでもいいような糞餓鬼のために。デメリットが大きすぎるとは思わないのか? 御前が失踪事件の犯人なんだろう?」

「君が誰かは知らないが、何を言っても無駄だ。説得することは出来ない。私はこれからこの女学生を殺す」

「な、何だって?」

 予想はしていたが、いよいよ本格的に狂っている。そこで何となく硝煙の臭いを感じた。すると先の銃声は猿仮面の仕業か。しかしそれにしては王憶蓮に怪我はない。

「驚くのも無理はない。しかし役に立たなかった以上仕方がない。余計なことを喋られると、私自身の命が危なくなるんだ。それは雑劇学院に起きている災厄を収めることが不可能になると言うことを指す…………」

「ど、どういう意味なんだ。おかしい、その論理はおかしいぞ」

 意味が解らない。雑劇学院に起きている失踪事件を引き起こしているのは、この猿仮面じゃあないか。そう思ったからそう言ってみた。

 しかしそれに答えはない。猿仮面は王憶蓮の右腕をひっつかみ、ずるずると引きずり始めた。この教務室から連れ出すつもりだ。がくがくと南瓜頭が障害物にぶつかって跳ね上がる。

 葉頴達は全身に力を込めて、立ち上がろうとした。しかし次の瞬間顎から床に落下する。唇を噛んだようだ。苦い鉄の味が舌に広がっていく。激痛に涙が浮かんだ。

 ──駄目だ。

 どうしようもない。意識が途切れてくる。このままだと、王憶蓮は殺される。でも、それでも別にいいかという思いもある。惰性の諦めが思考を支配していく。この睡魔の魅力の前には、全てのことがどうでもよく思えてくる。

 その時、背広の端から零れ落ちたものが視界の中に入った。それは賭博場で刑事の廬応京が持っていたものだ。そこから零れ出ているのは火薬のように見えてそうじゃあなかった。

 その隣には、王憶蓮が取りこぼしたと思われる、葉頴達の拳銃が転がっていた。硝煙の臭いはそこから漏れ出ていた。そう、拳銃は王憶蓮が使ったのだ。やはりと言う思いもあるが、猿仮面がぴんぴんしているところを見ると命中はしなかったらしい。

 ちょうど、上手い具合に猿仮面からは死角になっている。体をひきずるようにして拳銃に近づいていく。そして何とか拳銃を握りしめたが、そこが限界だった。拳銃を構えて猿仮面を打とうにも、それだけの余力は既に残されていなかった。

 ──糞

 朦朧とする頭の中で、葉頴達にはある考えが浮かんだ。そしてその考えに気がついた時、自分で自分の発想に腹が立った。

 猿仮面はいつの間にか教務室から消えている、葉頴達の意識は今にも消え去ろうとしていた。

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