WEB小説「憂鬱を育む蟲」~第二章、蚕で編まれた黄金6~

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 逢魔が時はすぎ、空には闇の帳が降りている。垂れ込めた雲を掻き分け、禍々しい威容をそこに曝しているのは銀色をした満月だ。この月光に照らされて、下界には高層ビルが延々と聳立していた。

 その窓や、非常階段からは裸電球の明かりが漏れ出ている。電線に何十羽もの鴉が止まっていた。その下層部は、塵芥にまみれた空気と暗闇によって輪郭を限りなく曖昧にしている。広告塔や看板の放つ有色放電灯(ネオンサイン)がぎらぎらと下品に輝いていた。

 傾いて聳立したビルの屋上に立ち、その景観を眺望しているのは一人の男だった。羽根飾りのついた鍔長帽子を被り、真紅の外套に包まれた左腕には手がなく、釣金型の義手がはえていた。その双眸には、何故か胡蝶の模様が浮かび上がっている。それは副学長の唐淵明だ。

 唐淵明の眼下に、隣接したビルの屋上が見えていた。針鼠のように鋭利な突起を持ったアンテナが、その一帯をびっしりと埋め尽くしている。

 その一郭に、立方体の形状を取った箱がある。それは昇降機とその機械室だ。そこに、南瓜頭をした子供が立ち尽くしていた。漆黒の外套を羽織り、制服と木靴を身に着けている。雰囲気からして得体の知れない陰鬱さを漂わせていた。

 唐淵明は深く息を吸う。これで一体何人目になるのだろうか。何処までいっても事態は何の進展もしない。ただただ道化が大量生産されるだけだ。あの男に言われるまま龍脈公司に依頼をしたが、それで何が変わるとは到底思えない。

 唐淵明はゆっくりと葉巻の空気を入れ換えながら、その南瓜人を観察し始めた。

 強風が吹き付けている。ビルの屋上に立ち、海賊フックのような出で立ちの男が雑居ビルを見下ろしている。唐淵明だ。

 唐淵明は葉巻の煙を吐き出した。紫煙は強風に吹かれて自分の顔面に降りかかった。噎せそうになったがどうにか堪えて眼前を睨みつける。その涙で霞んだ視界の向こう、摩天楼の電気が唐突に消え去った。香港の繁華街から音が消え去る。月光以外に光が存在しなくなった。

「また始めたな。野蛮人め」

 *

 紅南瓜は強い風を感じて目を覚ました。強烈な頭痛がする。何があったかを少しずつ思いだし、完璧に記憶が戻った瞬間南瓜頭を上げた。眼前には虚無の夜空が広がっていた。漆黒にかかるのは南瓜月。月にかかるのは千切れた黒い雲だった。

 一瞬その非日常的な空間の広がりに、今の状況が掴めなかった。こんなに空が近くにあるのは不自然だ。

 そうして足下を見下ろした瞬間、紅南瓜は目眩を感じた。足下には地面がなかったのだ。底なしの距離だけが、遠く漆黒に沈んでいる。自分は今、両腕を縛られ、屋上の手摺に吊り下げられているのだ。

 その高さを想像し、恐怖する。暗闇の遠く向こう、眼前にあるのは大廈の漆黒の壁面である。足下に遠く、微かに見えるのは柳の樹だった。足下から悪寒が伝わってくる。高所恐怖症であるとかないかとかは、この際関係のないほどの高さだ。

 状況が解らない。何故こんな目にあっているのだ。確か自分は教務室へ鉄索を書けるための鍵を取りに行って、そこで、

 ──そこで記憶が途切れている。

 何となく途切れる間際に猿仮面を見たような気がするが。そう、そこで咄嗟に拳銃を撃ったのだ。それは命中したのだろうか。いや、それを確認する前に自分は眠ってしまったのだ。しかし何故眠ってしまったのかは全然解らない。そういえば、黄玉卿達も同じように眠っていたが……。

 錯乱する頭で周辺を見渡し、後背に異様な気配を感じた。恐る恐る振り向くとそこに猿仮面がいるのに気がついた。どうやらここは屋上のようで、猿仮面は紅南瓜からかなり離れたところで何かをしていた。

 するとこれは猿仮面の所作だ。拳銃の弾は、当然と言えば当然だが命中しなかったのだ。あの葉頴達の適当な楽観論なんて何も宛にならなかった。

 それにしても猿仮面はこれから何をする気だろう。そんなものは一目瞭然だ。いよいよ殺される。好機がある今の内に逃げなければならない。しかしどうやって。そこで思考は行き詰まる。

 猿仮面は紅南瓜の方を全く見ていない。まったく見ずに、何やら儀式のようなものをしていた。何だか知らないが、キョンシー映画で見たことのある小道具が並べられているようだ。

 見れば、黄色い札に朱墨で祝詞が書き殴られている。それを木製の七星剣で貫いていた。一人でぶつぶつと呟いているのが何だか恐ろしい。

「さあ、これから私は生け贄を捧げる。これで私を許されるはずだ」

 しかし、と言って猿仮面は七星剣を振るった。

「しかしこれは敗北宣言ではない。何時か必ず救世主を見つけだしてやる! このままこのビルに縛り付けられるのなんて御免だ! 何時か、何時か巫士の正体を見つけだしてやる」

 言って、猿仮面は札を七星剣を使って炎の中に投じた。めらめらと燃え盛り、札は黒い炭となって散らばる。紅南瓜は一瞬その異様な迫力に見とれてしまう。しかしすぐに思い直した。

 変だ。狂っている。何を言っているのだ猿仮面は。誰に話しかけるでもない。喩えるなら電波と離しているのだ。典型的な精神異常者だ。何だか宗教がかっているから余計にそう感じる。

 何故、こんな奴に目を付けられてしまったのだろう。自分の一体何が悪かったのだ。真剣にその理由を考えた。見あたらない。運が悪いとしか思えない。

 紅南瓜が限りなく鬱状態に入っていると、猿仮面は両手をあげた。そしてその次の瞬間現れた光景に、紅南瓜は思わず息を飲み込んだのだった。

 猿仮面が仰いだ先に、何やら空間の歪みのようなものが見えたのだ。それは胡蝶のような形を取り、急速に集束して一つの奇妙な形を取った。

 紅南瓜は南瓜頭を固めて硬直した。それはどう見ても化け物だった。信じられない。輪郭が定まってはいないが、紅南瓜には間違いなく見えた。悲鳴が半分以上口から漏れ出てくる。

 化け物は異様な大きさをした甲殻中の姿を撮っていた。大きさが狂っている。こんな蟲は見たことがない。猿仮面とほぼ同じ大きさをしているではないか。

 背中についた二枚の羽根は襤褸切れのように破れている。甲殻は体液でぬめりを帯びていた。口からは触覚のようなものが見えている。それがかちかちと音を立てて、涎が地面に滴った。

「ひ、……」

 おぞましさに耐えきれず、思わず声を上げた瞬間、儀式に没頭していた猿仮面が振り向いた。しまったと強烈な後悔をするが、今更もう遅い。

「──ほう」

 猿仮面は仮面の口の端を奇妙な形に歪める。嗤っているのだ。化け物を背中に背負い、インチキ臭い斉天大聖はこちらへ向かって歩いてくる。斉天大聖を沈める三蔵法師はここにはいない。

「──目が覚めたか。ここは風通しがいいからな。だからこそ睡眠の効果が途切れてしまったのかも知れないな」

「あ……う……」

 紅南瓜は言葉が出ない。それを見て猿仮面が面白そうに笑った。外套を翻し、七星剣を空に翳す。

「どうしたんだ。何を見ているんだね。私の後ろに何がいるのかい? ひょっとして蟲の化け物とか?」

「…………」

「そう、小姐の思っているとおり、そんなものはこの現世に存在しない、それは嘘だ。欺瞞なんだよ」

 紅南瓜は恐怖で声が出ない。猿仮面は近づいてくる。その手には厚刃の刃物が握られていた。月光に照らされて明滅する。その後ろで胎動する化け物は、今にも羽を広げて動き出しそうだ。

 猿仮面は、人間じゃあなかったのだ。人間じゃあないから行動が理解できないのに違いない。人間じゃあないから何を言っても無駄なのだ。

 ──殺される。

 そう確信して必死で藻掻くが縄は切れそうにもない。ぎしぎしと軋むだけだ。それになまじ解けてしまうと落ちてしまう。このまま落ちるなんて考えられない。絶望的だ。一体どうすればいいと言うのだろう。

 猿仮面が更に喋っている。自分の言葉で自分の立つ足場を確認するように、一歩一歩を踏みしめながら歩いてくる。

「君は、何故自分が選ばれたのか、と思っているだろう。それは全て鑑文升のせいなのだよ。鑑文升が私のことを嗅ぎ回っていたからだ」

「哥哥の……そんな」

 紅南瓜は愕然とする。そんな、全部鑑文升のせいだったというのか。他人のせいで、今自分はこんな災難にあっているというのか。悔しくて思わず涙と鼻水が出てきた。南瓜の目からそれは垂れる。

「信じられないのかね」

「お願い、助けて。私が何をしたって言うの。鑑文升ならもう殺したじゃない」

「殺した? ──なるほど、言われてみればそうかも知れないな」

「?」

 どう言う意味だ。殺したのはこの猿仮面じゃあないか。あの血糊と断末魔の表情は今でも思い出せる。

「それにしても、前から思っていたが、自分の親類をネタに命乞いをするなんて本当に小姐の性根は腐っているな」

「…………」

 何故こんな人殺しにまで腹の立つことを言われなければならないのだろう。言い返せずに無言でいると、猿仮面がゆっくりと刃をのばしてきた。現実逃避をしようとして思考が真っ白になる。

 これで自分の人生は終わるのか。朧気ながらそんな諦観を持って双眸を閉じた時、物凄い轟音が耳を叩いた。

 鼓膜が麻痺しそうになる。そしてその轟音と同時に猿仮面が仰け反っていた。この景観は一体何だ。一瞬何が起こったのか解らなかった。空間が凍結したような静謐が、その屋上全体を覆う。

 驚いたのは猿仮面にとっても同じだったようで、呆然とした体で後ろを振り返った。王憶蓮もそれを追う。

「お、御前は……何故だ」

 猿仮面の視線の先、屋上の片隅には山高帽子を被った壮年が拳銃を構えて直立していた。その顔面は嗤っている。異様に興奮しているように見えた。

 銃口から立ち上っているのはどうやら硝煙のようだ。葉頴達が猿仮面を撃ち抜いたのである。ぎりぎりで助かったようだ。それにしても、今まで何処にいたのか。

「そこを離れるんだ。──猿仮面、って呼べばいいのかな。何しろ己等はあんたの名前を知らないんでね」

「……し、信じられない」

 猿仮面は肩で息をしながら、呆然と葉頴達を眺めやる。腹部を押さえているからそこを撃たれたのだろう。

「確かに御前は意識を失っていた。それが何故こんなところにいるんだ。そんな馬鹿な、眠らないなんて訳がない」

「五月蠅いぞ。ごちゃごちゃと訳の解らないことを呟いているんじゃあない。この狂人野郎が。その糞餓鬼から離れろって言っているだろうが!」

「五月蠅いのは御前だよ」

「な、何だとお?」

「……まあいい、それならそれで私にも対処の仕方がある」

 すると猿仮面は葉頴達を完全に無視して、王憶蓮の傍らまで来た。そして王憶蓮に刃を突きつける。今度は葉頴達が口を開けて驚く番だった。

「何だあ、御前は。離れろって言っただろう。いや違う。変だ。不自然だぞこの光景は。そもそも何故拳銃で撃たれても動けるんだよ!」

 葉頴達は慌てて拳銃を構えなおし、怒鳴った。何だか焦燥している。先程までの飄々とした人柄とは何だか懸け離れていて、紅南瓜は少し怖くなる。何なんだこの変節は。まるで黒社会の人間のような、ドスの利いた粗暴さが見えた。

 ──狂っている。

 何から何まで紅南瓜の日常が狂いだしている。あの麺を食べたときが最初だ。それから猿仮面が現れ、鑑文升がおかしくなって殺された。一体この雑劇ビルでは何が起こっているというのだろうか。もう嫌だ。何も考えたくない。

 拳銃で撃たれたはずの猿仮面は無言だ。それが何かに気づいたような表情になった。どれが何かは解らない。

 屋上の手摺に凭れかかって、撃たれたはずの猿仮面が何かに気がついたような表情になった。

「そうか、御前、覚醒剤か何かを打ったんだな。そうなんだろう。じゃあなきゃあ、眠らなかった説明が付かない」

「あたり、だぞ」

 と言って葉頴達は猿仮面を見下した。山高帽子がずれる。

「しかしどうやって手に入れたんだ。もしかして元からの中毒者か」

「違うよ、失礼な奴だなあ御前。覚醒剤は打ったが、中毒者と同じにしないで欲しいぞ。運が、よかったんだ。覚醒剤が己等の手元にあったのはな」

 そう言って、葉頴達は棒の残りを吐き捨てた。猿仮面を睨みながら、

「まさか、賭博場で廬応京から奪った袋に覚醒剤が入っているとは、これこそまさに天の采配と言うべきものだ。強烈な眠気など一瞬にして消え去ってしまった。猿仮面にとっては計算外の出来事だろう。──しかし、こんな爽快な気分になったのは何年ぶりだろう。炎で炙り、気化した薬を吸引するだけでこうだ。大麻のようなダウナー系の薬なら、昔黒社会にいた頃に使ったことがあるが、覚醒剤は初めてだ」

「…………」

「勿論、依存性のことを忘れた訳じゃあない。黒社会の関係で廃人になった人間も山ほど見てきたが、葉頴達は純粋に幸せを感じていた。これが超人的な力を得た気分になると言うものか。お陰で久しぶりに覚醒したような感じだぞ。今までが長い眠りみたいな。冗談事じゃあなくって、まじで癖になりそうだな。ところで、あんた、猿仮面はこんな話を知っているかい?」

「…………?」

「これは骨董屋を営んでいる楊爵滋って奴からの又聞きなんだがな」

 そう言うと、紅南瓜の南瓜頭が驚いたような表情になった。

「楊爵滋って、あの、自分はロボットだとか言っていた……」

「そう、あの変人のことだぞ。あんたとは龍宮粥麺で面識があったんだよな。で、そこの王憶蓮は龍宮粥麺で異様な量の麺を献上されたんだそうだ。けれどその差出人の正体が不明だ。不審には思ったが異様な食欲がわく。幾らでも入る、と紅南瓜は言っていたそうだ。そこで己等はな、この麺には、ある種の食欲増進剤か何かが混入されていたんじゃあないかと睨んだんだ」

 猿仮面は無言だ。

「何で献上品なんか送るのか、その理由は訳が解らないけど、己等は思うんだ。この麺の差出人の正体、つまり猿仮面の下にはある人物しか適合する人間がいないってな。それは誰だと思う?」

 言って、葉頴達は銃口を仮面に突きつけた。猿仮面は動揺し、紅南瓜は瞠目してその仮面を見上げる。

「それは一体……」

「猿仮面、あんたの正体は法之協なんだろう? 龍宮粥麺の料理長」

 紅南瓜は孤独に震えている。拳銃を構える葉頴達の死角には先の化け物が佇んでいる。後背で南瓜の月が嗤っていた。

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