WEB小説「憂鬱を育む蟲」~第二章、蚕で編まれた黄金4~

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 漆黒の夜空に、丸い銀色の満月が浮かび上がっている。その月光に照らされて、屋上に設けられた非常階段室の門扉が薄く開いていた。ぼんやりと立ち篭めた霧の向こう、そこから鉄索の向こうの南瓜女を覗いているのは太った男だ。

 白の紳士帽子を被り、白い外套を羽織ったその男の鼻は、ピノッキオのように尖っていた。紅南瓜の相方、鑑文升である。鑑文升は悔しげに舌打ちした。

「糞っ。遅かったか。紅南瓜は樹を見てしもうた! あれだけ苦労して助言を伝えたって言うのに、何ちゅう人の話を聞かへん奴なんや!」

 しかし、それならそれでもいい。元々こういった偽善的な行動は自分には似合わない。紅南瓜がなったというのなら、それを利用して自分の今置かれている窮地をどうにかするだけの話だ。

 鑑文升は心中でそう決意を表明するとと、薄く溜息をついた。疲労のせいだろうか、何だか知らないが急に眠気を感じたのだ。堪えきれずに漏れ出た欠伸を噛み、擦った目には胡蝶の模様が浮かび上がっていた。

 鑑文升の後背には松明の揺らめく炎に照らされて、下りの非常階段が浮かび上がっている。そこに、ぬっと人影が浮かび上がった。影は豪奢な外套を羽織り、その頭に猿の仮面を被っていた。

 猿仮面はゆっくりと厚刃の小刀を持ち上げる。その刃に映った猿仮面の双眸に映っているのは胡蝶の模様だった。

 *

 順桂分は闇に姿を消した。一瞬、追い掛けようかと思ったが、それよりも順桂分がしていたことが気になった。鉄索に浮かび上がった南瓜提灯の模様を睨む。そしてその鉄索を乗り越えようとした時、後背に異様な気配を感じた。

 慌てて振り向くと、漆黒の闇に浮かぶ南瓜の月を背景に、紫色をした胡蝶が滞空していた。鱗粉を撒き散らす、二対四枚の羽根には奇妙な模様がある。鱗粉とは鱗状の粉で、毛が変化したものだ。視覚的には美しいのに、何故かその胡蝶を見ているといい知れないおぞましさがこみ上げてくる。全身が総毛立った。

 ──う、

 呻こうとした次の瞬間、胡蝶が紅南瓜に襲いかかった。ぎゃっ、と叫んで仰け反り、必死になって南瓜頭を振り回していると、唐突に胡蝶の羽音が消え去った。そして次の瞬間、眉間に異様な異物感を感じる。強い灼熱を感じ、南瓜頭の眉間を押さえて蹲った。何なんだと混乱をしていると、脳天を貫く衝撃を感じた次の瞬間にそれは消え去った。

 錯乱する。今の胡蝶は一体何だったのだ。それに一瞬の異物感。まさか、南瓜提灯の中に胡蝶が入り込んだのか。しかしそれにしては何の感触もない。

 暫くの間呆然としていたが、正体不明の予感に導かれて、紅南瓜は鉄索を振り返った。少し躊躇したが、好奇心が勝って鉄索を越える。そしてその格子をしっかりと握りしめて、屋上の端に立った。気流が体を叩く。それでも勇気を振り絞って、十五階分の高さのある下を覗き込んだ。ぱらぱらと砂利がこぼれ落ちる。その余りの高さに一瞬怯んだ。

 裸電球の乏しい明かりに照らされておぼろげに確認できたのは、ビルの下にある荒れ果てた空き地だった。伸びきった草むらと腐った枯葉が一面を覆い尽くし、裸になった漆黒の樹木が広がっている。その空き地の向こうは、大廈と大廈の隙間へと繋がっていた。するとそこが入口になっているのだろうか。

 この空き地の中央に、長大な樹が聳立している。枝から吊り下げられた南瓜提灯がその全容を暗闇の中に薄く浮かび上がらせていた。それは柳の樹だ、

 紅南瓜は遠くその柳を見やりながら、掌中に握った蒴果を見ようとした。するとその拍子に蒴果を落としてしまう。それは大廈の壁面にコツコツとぶつかりながら落下していき、暗闇に消えた。

 紅南瓜は茫洋と符号の意味を考え始めた。その南瓜頭の双眸に、紫色に輝く胡蝶の模様が浮かび上がっている。空では南瓜の月が嘲笑っていた。

 天蓋には相変わらず南瓜の月が浮かんでいる。それに照らし出された南瓜だらけの屋上で、王憶蓮は非常階段の門扉の前に立っていた。門扉には南瓜提灯が原色で描かれている。階段なら、不気味だが昇降機のように落下事故の可能性はないだろう。

 門扉を開けると、軋んだ音と共に薄暗い閉鎖された空間が視界に入った。一瞬息を飲んだが、深呼吸をして中に入った。そのまま階段を下りていきながら、手元に残った最後の蒴果を見やる。

 蒴果は柳の木の種だと鑑文升は劇中で言っていた。すると屋上から見えたあの柳の樹に何か関係があるのだろうか。猿仮面は献上品に紛れてこの蒴果を渡そうとし、紅南瓜を屋上へと誘導した。すると柳の樹を見せたかったことになる。しかしこれは微妙におかしい。猿仮面が失踪事件の犯人なのだとしたら、変に回りくどいことばかりだ。柳を見せてどうなるというのだろう。

 見れば、紅南瓜の眼前には十五階の門扉が聳立している。耳を澄ませてみると、やはりあの昇降機で聞いた異音が微かに聞こえた。薄気味悪い。何だか怖くなったので、急ぎ足で階段を下りていく。十四階を通り過ぎた当たりで、漸く一息ついた。

 その時だ。木靴がぬるりと滑った。何だろうと足元を見てみると、混凝土が黒く塗れている。黒い水溜まりが出来ていた。はっとして上の階段を見やると、その染みは既に上から引きずったように続いていた。どうして今まで気がつかなかったのだろう。

 ──これは、まさか。

 しゃがみ込んで指で混凝土をなぞる。すると指は赤黒く塗れて変色した。

「……ち、血糊?」

 何故血糊があるんだ。それも新しい。強い危機感と得体の知れない恐怖を感じた。ここにいるのは不味い。ここで問題なのは階段を下りるか、それとも傍らの非常扉を抜けて昇降機に乗るかだ。

 紅南瓜は非常扉を開けた。そして急いで中に入って扉を閉めた。そしてそのまま昇降機へ向かって廊下を駆け出した時、後背から声がかけられた。

「残念、はずれだ。非常階段を下りるのが正解だった」

 声には聞き覚えがある。それは猿仮面の声だった。恐る恐る振り向いた眼前には、廊下が広がっている。その廊下は鏡張りになっていた。自分の南瓜提灯が四方八方を囲んでいる。その鏡の中に、真紅の外套を羽織った猿仮面がいた。

 恐怖で身が竦み上がった。罠だ。やっぱり来るんじゃあなかった。猿仮面が塞いでいて非常扉には戻れない。

「──な、何で」

「さあ、どうだい。小姐、貴方は柳の木を見たのかな」

 鏡の中で、猿仮面が訥々と語り始めた。猿の鼻面に皺が寄る。

「見たのなら私に話さなければならないことが、あるはずだ。いいや、直接は話さなくてもいい。ただ、証拠を見せてくれればいいんだよ。小姐が私の役に立つのか否かをね。そう、それはこの鑑文升がやったようなやり方が相応しい」

 言って、猿仮面は芝居がかったた所作で外套をまくった。外套の中から、血糊で赤く染まった鑑文升が倒れ込んでくる。鑑文升は手首を切られていた。そこからドクドクと血糊が流れ出ている。その奇術師のような大仰な演出を見ながら、紅南瓜は絶句した。

「文升、文升が何で……」

「この男は、折角確信を掴んで置きながら、結局何の解決をもたらすことも出来なかった。それどころか、私がしようとしていることを阻害しようとまでしたんだ。可哀想なんだが、仕方がない。だが、もしも小姐が私の満足がいく答えをくれたのなら、その時は死を免れるだろう」

 猿仮面が裸足の一歩を踏み出した。瞬間、鏡の全てに猿仮面が映し出される。それはまるで子供の頃に見た万華鏡(カレイドスコープ)のように変幻自在に様相を変えた。

「小姐は、私が出した謎の答えが解ったか? もしも解らないのなら用はない。邪魔をされるのも面倒だから、二人ともども処理をする」

 言って、猿仮面は鑑文升の頸動脈に幅広の刃物を突きつけた。

「──な、何を言っているのか解らない。貴方は一体私に何をさせたいんです」

 呻きながら紅南瓜は鏡の鑑文升を見やる。鑑文升は瀕死の状態だ。今、紅南瓜が猿仮面に対して肯定的な答えを出せば、生きる時間が長くなるかも知れない。でも、嫌だ。そんな重大な二択を自分の判断だけで選ぶなんて出来ない。一刻も早くここを逃げ出したい。

 そこで唐突に思いついた。幾ら何でも猿仮面が人を殺すとは思えない。そう、これはただの脅しだ。それよりも救助を求めて誰か大人を捜した方が絶対にいい。

 そう自分を言いくるめ、鑑文升を見やる。

 鑑文升は意識が戻ったらしい。短く呻いて、紅南瓜の方を見やった。

「……た、助けてくれ」

 一瞬迷う。逡巡する。しかし大丈夫だと無理矢理言い聞かせ、紅南瓜はきびすを返してその場を逃げ出した。

 鏡を見る。猿仮面は何を考えているのか、黙然として動かない。やがて鏡の空間を抜け出した。そう思った途端、頭上に風を感じた。上を見上げると、鑑文升と目があった。衝撃を感じて尻餅をつく。眼前に、鑑文升が転がっていた。投げられたのだ。なんという馬鹿力だ。その頸動脈はかっ切られていた。短く痙攣し、何かを言おうとした次の瞬間に双眸から光が消えた。

 ──死んだ。

 そう認識した瞬間、悲鳴は口から漏れ出ていた。がくがくと震える足を這わせ、鑑文升から視線をはなせないままに後ずさりながら走り出した。

 眼前には廊下が広がっている。跫音を響かせ、そこを駆け抜けながら、紅南瓜は声にならない大声を上げ続けた。

「あああああああっ」

 ──死んだ。殺された!

 当然だ。猿仮面は人殺しだってことは最初から解っていたのに、何故ただの脅しだなんて思えたのだろう。それは自分のエゴのせいだ。すると自分が悪いのか。見捨てた自分が悪いのか? しかしあの場合他にどうすれば良かったと言うのだろう。鑑文升のあの双眸。まるで自分を呪詛しているかのようだ。恐怖と後悔と罪悪感とで無茶苦茶になりそうだ。

 リノリウム製の廊下を見やる。ところどころに電気のついている部屋がある。なのに、助けを求めても一向に人が出てくる気配がない。何故なんだ。まるで世界に自分一人になったような不安が押し寄せてきた。

 ──どうして、こんな目に。

 その次の瞬間、がしゃんと言う音と共に廊下中の明かりが消えた。停電である。視界が漆黒に塗りつぶされた。何も見えない。後背には猿仮面がいる。

 紅南瓜は泣きそうになった。

 紅南瓜は暗闇の中を、壁伝いに必死で進んだ。途中何度も突き当たりに南瓜頭をぶつけながら、兎に角助けを求めて声を上げ続けた。しかし、答える声は何処からも聞こえない。後背からは幻覚とも何ともつかない猿仮面の気配が迫ってくる。

 極度の不安のせいか、現実逃避をしようと脳が思考を止めようとする。するとその時だ。何処か遠くから声が聞こえてきたので誰何した。歓喜に腰が抜けそうになる。

「誰?」

「俺は風水師だ! いいから取り敢えずここだ、声のする方へ来くるんだ!」

「わ、解った!」

 そう答えると、紅南瓜は声を目指して進む。急速に緊張感が途切れていくようだ。すると非常灯が微かに見えた。その鉄索状になった門扉の向こうに、山高帽子を被った飄然とした壮年男が立っていた。何と都合のいいことに、拳銃を持っている。

 それを見た瞬間、全てをその壮年に押しつけて紅南瓜は考えることをやめた。安堵の余り、ぐらりと鉄索に倒れこむ。がしゃりと鉄索が軋んだ。壮年は驚いたように紅南瓜を見やった。

「こ、殺される!」

 紅南瓜は舌が縺れたまま、滅茶苦茶に喋った。山高帽子の男が何かを言っていたが全く耳に残らない。兎に角状況を説明して、早々にその壮年に責任を押しつけたかった。そうして支離滅裂ながらも一通り喋り終わる。その中で顔を上げた瞬間、ふと奇妙な言葉を聞いた。

「紅南瓜……」

 眉を顰めて壮年を見やる。何故この山高帽子を被った変な男が自分の名前を知っているのだろう。面識はないはずだ。微かな不安が首を擡げる。まさか猿仮面の仲間なのだろうか。そもそも、何故風水師がこの雑居ビルにいるのだろう。

「どうして……」

「い、いや、何でもない。己等の勘違いだったみたいだ」

 壮年はそう言って慌てたように視線を逸らした。逸らしたまま、自分は葉頴達だと名乗った。ますます怪しい。紅南瓜はいまいちその反応の意味が解らない。

「何処かであったことが……?」

「そんな世間話をしている場合じゃあないだろう。何だかよく解らないが殺人鬼が彷徨いているんだろう? ならここでこうしていても埒があかないぞ。ちょっと邪魔だからそこをどいてろ」

 何だか強引に話を逸らされた。何をする気だろう。一応言葉に従ってその場を離れる。葉頴達と名乗った男は紅南瓜が離れたのを見届けると、ゆっくりと拳銃を持ち上げた。何だから危なっかしい構え方だ。安全装置は解除されている。鉄索の付け根に狙いを定め、発砲した。銃口が火を噴く。

 吃驚して一瞬目を瞑る。ゆっくりと目を開けると、少し捻れただけで鉄索は閉じたままだった。よく見れば、南京錠と鉄鎖とで頑丈に戸締まりがされている。

「もう一度だ」

 そう言って葉頴達は拳銃を撃った。するとその木彫り人形のような顔面に擦り傷が出来る。跳弾だ。

「痛い! あ、危ないなあ」

「…………」

 駄目だ。何の頼りにもならない。紅南瓜は少しずつ落胆し始めていた。

「全然駄目だなあ。何か細工がしてあるな。仕方がない。あんたが管理人室から鍵を撮ってきてくれ」

「え?」

 一瞬、何を言われたのか解らなかった。紅南瓜は南瓜頭を上げて暫し茫洋とする。そして理解した瞬間、動揺した。

「そ、そんなこと出来るわけない。殺人鬼が彷徨いているのにっ」

「でもな、このままここにいてもどうしようもないぞ。拳銃を貸してやるから、さっさと言って取って来るんだ」

 そう言って葉頴達は鉄索を越えて拳銃を押しつけてきた。情のかけらもない冷たい感触が掌を襲う。紅南瓜が反射的に拳銃を掴むと葉頴達はさっさと手を引っ込めた。

「そんな、拳銃の使い方なんて知らないです……!」

「嘘つけ。使ったことがないだけだろうが。映画とかでよく見るだろう。引き金引いたらおしまいだぞ。実を言うと己等も今撃ったのが初めなんだ。だからどうとにでもなる。いいから持っとけって。己等は他のルートを探してくる。下の階から昇降機を使ってこの階に上がってくるよ」

「そんな、」

「でも上手く行くとは限らないからな。あんまり期待しないで自分で鍵を取って来いよ。ちなみに今ので残りの弾数は三発だ。考えて使えよ。それじゃあ頑張れな」

 拳銃を片手に呆然としている紅南瓜を後目に、何と葉頴達は非常階段を下っていった。あっという間に姿が消え去る。

「ま、待って……」

 その懇願に返答はない。何て暢気な男だろう。言いようのない怒りがこみ上げてくる。折角助かったと思ったのに、何故あの男は助けてくれないのだ。それどころか更に危険な命令を言い渡されてしまった。まるで、自分とさっさと離れたいと言わんばかりの不自然な態度だ。

 ──でも、

 こんなところで立ち往生をしていたら何れは猿仮面に捕まる。拳銃を渡されたが、確実に相手に当てる自信はない。どっちにしろ、この鉄索を開けて逃げ出さなければどうしようもないのだ。いや、昇降機を利用するという手もあるが、この暗闇の中、そこまで辿り着ける自信はない。

 紅南瓜は漸く鍵を取りに行くことを決断した。戦戦兢兢としながらも視界の閉ざされた廊下を歩き出す。やがて見えてきたのは教員室らしかった。管理人はここにいるはずだ。そういえば教師の黄玉卿が今日居残りで成績をつけるとか言っていたが、ここにいるのだろうか。

 何処に猿仮面が潜んでいるのか解らない。なるべく音を立てないようにしながら、門扉を引く。そうして見た室内は真っ暗だ。人気は全くない。誰もいないのを不思議がりながら壁に掛かっていた非常時用の懐中電灯をつける。

 そうして見た室内の情景に、紅南瓜は度肝を抜かれた。

 誰もいないと思っていた室内に、三人の人間がいたのだ。事務机に座し、その三人は一様に俯せになっていて動こうとしなかった。全て見知った教員である。三人の中には黄玉卿がいた。

 ──変だ。

 異様な光景だ。さっきまで電気がついていた時、この三人は一体何をしていたというのだろうか。何故、停電になったことに誰も気がつかない。どうして恰も死んだようにして俯せになっているんだ。

 もしかして皆が皆して自分を虚仮にしようとしているんじゃあないのか。

 そう思った瞬間、教員室の門扉が開かれる音が聞こえた。恐怖で跳び上がり、紅南瓜は何故か眩暈を感じて蹌踉めいた。

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