WEB小説「憂鬱を育む蟲」~第二章、蚕で編まれた黄金3~

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 ちらつく蛍光灯に、蛾がまとわりついている。その光源に照らされて、広がっているのは細い廊下だ。新聞紙や段ボールを広げ、そこら中に浮浪者が屯している。浮浪者の向けた胡散臭げな視線の向こうに、山高帽子を被った葉頴達はいた。葉頴達の眼前には、学長家の古びた玄関がある。

 葉頴達は結局、あの後唐淵明と別れて学長夫妻の部屋へ来た。仕事は手っ取り早く済ませたかった。

 ──それにしても、

 葉頴達は嘆息する。何か、過去の嫌な想い出が蘇ってくるようなことばかりだ。

 ──糞、久しぶりに感情が動いているな。

 失踪事件の真相を暴くことが出来れば龍脈公司の株は上がる。しかし面倒くさい。人生に置いて負の感情を感じるなんて本当に時間の無駄だと思う。

 そうして茫洋と仕事を断る言い訳を探していた時である。黎彗嫻と人面鷹が大声を上げた。見ると、子供部屋に無数の胡蝶の死骸が散乱してあった。

 驚いたのもつかの間、それに引き続き、薄く動物の鳴き声のようなものが聞こた。ぎょっとして当たりを見渡すが、部屋は静まり返っている。当然だ。この部屋には、いや、この階には今ここにいる三人しかいないはずだ。

 気のせいかと思って息を吐いた時、その声は今度ははっきりと聞こえた。何階も上の階からだ。窓を伝わり、空気を伝わり、ここへ聞こえてくる。それは動物じゃあない。人間の悲鳴だ。

 黎彗嫻と人面鷹がこちらへ視線を寄越してきたのに対して、軽く手を振る。そして、自分が見てくるから二人は引き続き調査を続けていてくれと言い残し、部屋を出ていった。

 全くやっかいごとばかり起こる。郭鵬挙に頼んでやはり仕事から外して貰おうか、などと考えながら廊下を突き当たりまで行く。眼前の案内板を見上げた。案内板は錆びかけた鉄のプレートに彫刻して記されている。そこにはこの雑居大廈に入居したテナントの一覧が、階数ごとに別れて表示されていた。

 一から四階までは、興信所、自己啓発セミナー、骨董屋から視力回復センターなどと全く統一感がない。五から九階までには雑劇学院の映写室、講義室などの諸施設がある。十階から十四階は凵亂に住む人間に提供された一般住居だ。最上階、つまり十五階はこの大廈の管理人室である。

 葉頴達が今いるここは百五十五階だ。昇降機はここで別の駕籠に乗り換えなければならない。その昇降機の階数表示盤は、今屋上から降りてきていた。

 何だ面倒ごとかと軽い高揚感を感じた。表示盤を見上げると、昇降機は丁度ここへ降りたところだった。

 ──行ってみよう。

 軽く駆け足をしながら昇降機の門扉が開くのを待つ。そしてその昇降機の室内が見えた時、葉頴達は強烈な違和感を感じて立ち止まった。

 蛍光灯が照らし出した駕籠の中に、巨大な壺が置かれていたのだ。骨董品と言うには薄汚れている。表面を飾っているのは花鳥風月の絵だ。

 その壺の廻りを無数の胡蝶が舞っていた。揚羽蝶だか紋白蝶だかはしらないが、胡蝶は総じて淡い紫色をしていた。鱗粉を振りまき、それは降り注ぐ桃の花にも見えた。

 ──何だ、こりゃあ。

 変だ。何故昇降機に壺が乗っているのだ。誰かが運ぶために乗せたのか? いや、それは理由にならない。壺だけ乗せて昇降機を動かしても、九階に辿り着いた瞬間に壺は再び上階へ運ばれてしまうじゃあないか。こんな不自然な光景はあり得ない。

 くらくらしそうな非現実感を感じていると、その壺がいきなり動いた。底を揺らし、がたがたがたがたと震動をし始める。そして次の瞬間起こった出来事に、葉頴達は度肝を抜かれた。

 壺からにょきりと手足がはえたのだ。手足は何度か柔軟体操をすると、すっくと壺を持ち上げ立ち上がった。そして今度はその壺の蓋が持ち上がる。蓋の下には深淵の闇がある。そこから覗いた顔は童子のものだ。

 蓋の帽子を被ったその童子は、暫く胡蝶の群れを見やった後、ひょこひょこと昇降機の操作盤まで歩いていった。そしてこちらを見やる。葉頴達は圧倒されそうになりつつも、漸くの思いで声を出した。

「──御前、頭が膿んでいるじゃあないのか? 一人で壺なんかに入って一体何しているんだよ」

「…………」

「おいおい無視してるんじゃあないぜ。そんな立派な壺に入ってるかたっていい気になっていると……」

 葉頴達はそう凄んでみるが、壺人間は何も答えない。閉じるボタンを押すと、頭を引っ込めた。蓋が壺と接触し、内部が見えなくなる。手足も同様にして引っ込んだ。すると壺はがたんと駕籠の床に落下し、暫くぐらついた後完全に沈黙した。

 茫洋と見つめている中、昇降機の門扉は閉じていく。

「お、おい待てよ」

 慌てて引き留めたが後の祭りだ。暢気な効果音と共に、壺を乗せた昇降機は再び上階へと昇っていった。

「……な」

 何の冗談なんだ。唖然としながらも何だか失笑しそうになっていると、また上階から悲鳴が聞こえた。はっとして昇降機のボタンを連打するが、駕籠はすでに上昇を始めてしまっていて帰ってきそうにない。

「駄目か。迂闊だったな」

 呻いて門扉を叩いた。一体何だったのだろう。意味が解らないが、どっちにしろあの昇降機が帰ってくるまでなんて待てない。葉頴達がさてどうしようかと腕組みをした瞬間、ガシャンと言う音と共に突然廊下の明かりが消えた。視界が漆黒に閉ざされる。

 停電だ。何で今、この瞬間に停電が起こるんだろう。もう滅茶苦茶だ。異様すぎる。何か、とても狂ったことがこのビルで起ころうとしている。葉頴達は舌打ちをするが、すぐに気がついた。

 ──そうだ。階段だ、非常階段がある。

 双眸は暗順応を始めている。壁面を伝い、緑色の光源を頼りに非常扉まで歩いていく。その門扉を開き、葉頴達は急いで階段を駆け上がった。閉ざされた空間に跫音が響く。あの悲鳴の切迫した感じからすると、もう余り時間は残されていない。

 階段を駆け上がりながら壺のことを考える。確か唐淵明が、胡蝶を蒐集している人間が雑劇学院にいると話していた。もしかしたらさっきの童子がそうなのかもしれない。名前は戴夢周、失踪した学院長の息子だ。子供なので、そうするとあんな壺には入れていたことに説明は付く。一応は、だが。

 戴夢周は元々言葉数の少ない子供だったらしいが、両親が失踪して以来それが酷くなったと言う。今は管理人の順桂分と言う老人と一緒にここの十五階に住んでいるらしい。順桂分は戴夢周の母方の祖父にあたる。戴夢周はだが、その順桂分にさえ心を開いていないらしい。もしかしたら毎日ああやって一人で遊んでいるのかも知れなかった。

 ──やっと百五十五階か。まだ声は遠いぞ。

 何だか息が切れてきた。足が鉛のように重くなってくる。普段ダラダラと生活しているつけを払わされたのだろうか。我ながら似合わないことをしていると思う。こんな肉体労働は郭鵬挙の役割だ。

 そして葉頴達は、更に自分に似合わないことを自覚しながら、背広から連発式拳銃を取り出した。賭博場で使って以来、その存在すら忘れていたこの黒鷹の弾倉を開く。弾倉に銃弾は全て装填されている。それを確認すると弾倉を戻し、安全装置を外した。

 階段は何処まで行っても単調な景色を視野に投げ込んでくる。足を動かし、拳銃を眺めながら、何故だかは知らないが欠伸が出てきた。瞼が重くなる。頭に霞がかかったようになってこくりと頭が落ち、はっとして首を振った。

 踊り場の壁面を見れば、白の塗料で十三/十四と表示されている。何時の間にかこんなところまで昇っている。最近の睡眠不足のせいだろうか。一瞬意識が飛んでしまったが、そろそろだ。一応は足音を消しておく。

 出口の門扉を見やと、荒れた治安に対する安全対策のために鉄格子が駆けられている。南京錠でしっかりと鍵がかけられていた。その向こうは停電のせいで闇に埋もれている。

 そろそろと近づいた時、また悲鳴が聞こえた。今度ははっきりと聞き取れた。助けを求めている。

「おい、一体どうしたんだ!」

 葉頴達は鉄格子を揺らしながら、そう怒鳴る。鉄格子の向こうには、非常灯が照らし出した廊下が薄ぼんやりと見えるだけだ。停電のせいで視界がかなり悪い。暫くあって、女の声が帰ってきた。

「誰?」

「己等は風水師だ! いいから取り敢えずここだ、声のする方へ来くるんだ!」

「わ、解った!」

 返事を最後に、気配が消える。そしてつと奇妙なことに気がついた。確かに今は夜だが、それにしても人が一人もいないわけがない。この騒ぎ、しかもこの停電に対して誰一人出てこないのはどう言うわけだ。不自然なほどに静かすぎる。

 ──何か、変だぞ。おかしい。

 例えば住民達は一体どうしたんだろう。自分よりも上階にいたはずなのに、この悲鳴が聞こえなかったわけはない。停電で動きがとれないと言う可能性はあるが……。

 拳銃をしっかりと握りしめ、漠然とした疑念を浮かべていると、突然鉄格子が揺れた。驚いて眼前を見やる。どうやら暗闇で接近に気がつかなかったらしい。

 ぜえぜえと息を切らして鉄格子に凭れたそれは、雑劇学院の女学生だった。制外套と制服を着、大きな木靴をはいている。葉頴達はその後ろを注視する。今のところこの近辺に人の姿は見えない。

「どうしたんだ、さっきから助けを呼んでいたのは御前か?」

「──ひ、人殺しが」

「──え?」

「猿の仮面を被った人殺しが、私を追い掛けてきているんです! このままだと殺される! それに南瓜が、柳の樹が! 私は何も悪くない!」

 女学生は俯いたまま喚き散らした。堰を切ったようにだ。だいぶ錯乱している。余程の恐怖を味わったのだろう。よく見ると、女学生の制服は黒く塗れていた。

 ──血? 血糊なのか?

「おいあんたっ、何なんだよその制服に付着している赤黒いのはっ。あんたの怪我じゃあないな。返り血みたいだ。まるで訳が解らないぞ」

「…………」

「まあいい、いいから深呼吸して落ち着くんだ。この鉄格子の鍵は開かないのか」

「わ、解らないです。鍵は皆、各階の管理人が管理しているんです」

「そうか。それを取りに行くのは難しいなあ、この暗闇じゃあ。それでその猿の仮面を被った人殺しって言うのは一体何なんだ。武装をしているのか? 何処で襲われて、今何処に潜んでいるんだ」

「わ、解らない」

「解らないじゃあないだろう無責任な奴だなあ。ちゃんと答えないと訳が解らないじゃないかっ。解ってるのか? 今危機が迫っているのは己等じゃなくってあんたなんだぞ」

 しかし女学生は何も答えない。現実逃避をするように、陰鬱にぶつぶつと虚ろに呟き続けた。

「あの麺さえ、あの麺さえ食べなければ巻き込まれなかったのに。あの献上品を。そうだ、哥哥は自業自得だったんだ」

「……麺? 麺だって?」

 はっとした。

「おいあんた、それはもしかして龍宮粥麺とか言う粥麺専家で貰ったんじゃあないだろうな」

 異様な予感を感じた。そして呻きながら顔を上げた女学生を見て、葉頴達は危うく拳銃を落としそうになった。女学生の頭には、南瓜提灯が被られていたのである。

「あ、紅南瓜……?」

 無意識のうちに呟くと、女学生は不思議そうにこちらを見返した。南瓜提灯の笑みが葉頴達を嘲笑っているようだった。

 *

「うん……?」

 何か、何処か遠くのほうで鈍い音がしたのは気のせいだろうか。その後何も聞こえないことからすると、やはり気のせいだったのかも知れない。爆竹か何かの音を聞き間違えたのだろう。

 そこは狭い待合い室だった。調度品の類は今自分が座っている寝台以外にない。壁面が毒々しい黄色の塗料が塗られてあった。黒頭巾を被り二十代前半と思しき容貌を持った刑事、廬応京は風通しをよくするために開けている窓を眺めやる。

 異常な自己主張をして、下品にきらめくネオンサインが白皙の肌に映し出される。聳立した摩天楼に見下ろされて、遠い一郭に古色蒼然とした煉瓦造りの建造物が見えた。それは廬応京が担当している失踪事件の渦中にある雑劇学院、その雑劇学院の旧劇場だ。旧劇場はもう使用されていないはずだ。近くの大廈に新しい劇場を新設したとか。

 ここは旺角の奥、娼館が無秩序に軒を連ねる繁華街である。「日式指圧」「夜總会」「──姉妹」「──カラオケ」「小築」などなど、風俗関係の扁額がこれでもかと言うくらいに密集している。呼び込みを行っているものや、香港人、日本人の団体などがこの繁華街を埋め尽くしている。

 その低俗な景観を面白おかしく眺めやっていると、何処か解らないが微妙な違和感を感じた。何だろう。景色の何処かが不自然だった。その理由を茫洋と考え込んでいると、ノックが聞こえた。

「はいはいどーぞ」

 何度めかの交替を命じ、漸く満足する娼婦が入ってきたその時、廬応京の傳呼機、つまりポケベルが鳴った。舌打ちをして壁に掛けた背広から漆黒の傳呼機を取り出す。その液晶に映った広東語を見やり、廬応京は嘆息した。

 そこには「雑居大廈で不審な停電が起こる。また、近隣に住民によって不審な銃声を聞いたと通報が入った。至急現場へ急行せよ」と言った内容の漢文があった。仕事が入ってしまったのだ。

 すると、と廬応京は思い返す。さっき聞こえた鈍い音は銃声だったのだ。銃声となるとただ事じゃあない。もしかすると廬応京が抱えている失踪事件に関係があるかも知れなかった。

「ふう」

 廬応京は溜息をついた。娼婦が心配そうにこちらを見ている。その娼婦はどう見たって未成年だ。

 ──でも、

 売春の取り締まりは廬応京の管轄街だから別に気にならない。それに、取り締まりが強化されているのは売春そのものじゃあなくって、大陸から香港への不法入国者だ。

 廬応京は舌打ちをしたいのを堪え、その雑居大廈を遠く眺めやる。この風俗街を遠く離れた向こうの大廈を見たとき、廬応京は確かにその電気が消えているのに気がついた。局地的な停電なのだろうか。しかし、

「どっちにしたって面倒なことに代わりはないな」

 廬応京はそう呟きながら上着を羽織り始めた。仕方がない。それにしても興味本位で刑事にはなってみたものの、なかなか気楽な仕事じゃあなかった。ポケベルを外套の懐にしまい、廬応京は娼館を後にした。

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