WEB小説「憂鬱を育む蟲」~第二章、蚕で編まれた黄金2~

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 乾いた鐘音が、拡声器を通じて雑居ビルの施設中を反響する。その施設の一つ、この大部屋には何脚もの事務机が並べられてあった。室内には脂の臭気がこびりついている。この大部屋は雑劇学院の教員室だった。雑居ビルの百二十四階にある。

 放課後ということもあって居残っている教職員はそう多くはない。その殆どは飲茶をしながら雑談を交わしているが、黄玉卿だけは別だった。さっきから自分の事務机で俯いたまま、独り残業の処理に追われている。無視をされていることに堪りかねた紅南瓜は、とうとう苛ついた声をあげてこの教師を糾弾しようとした。

「お願いです、無視をしないで聞いてくださいよ黄陛下。さっきから、何度説明をすれば解ってくれるんですか」

「──何度と言われても、そんな荒唐無稽な話をされて、私にどうしろと言うのです」

 中華人形を抱きかかえながら黄玉卿は溜息をつく。眼鏡を曇らせたまま顔をあげて、ぼそぼそと恨み言を呟いた。そのやるきのない態度に私は憤慨する。

「どうしようもないって、歴とした犯罪事件じゃないですか。こういう場合、生徒個人が通報するのは何だか変です。雑劇学院側が対処をするのが普通でしょう?」

『ちょっと、いい加減に諦めが悪いわよ紅南瓜。何が猿の仮面を被った男に脅されたよ。しかも拳銃で? 演劇中に突きつけられたそうだけど、何故周辺の人間が誰独りそれに気がついていないのよ』

 少しでも責められると、黄玉卿はすぐに中華人形に喋らせる。その首は微妙に折れ曲がったままだ。一方、私は痛いところをつかれて反駁が出来ずにいた。そう、確かに何ら証拠のない、荒唐無稽な話には違いないのだ。しかし事実あったのだから仕方がないではないか。

『親切心で忠告しておいてあげるけど、警察にその話をしても無駄よ。そんな一個人の妄想を取り扱ってくれるほど、彼らは暇じゃあないわ。その点に関しては、紅南瓜の判断は正しかったわけね。結局、そんなのものは全部自意識過剰の行き過ぎた妄想でしかないのよ。南瓜の分際で被害妄想なんて、図々しいにもほどがあるわ!』

 旧態依然とした、差別感情丸出しの言葉である。私は、中華人形の無機質な両眼を恨めしげに睨みつけた。妄想妄想と、よくも人のことが言えるものだ。この精神脆弱な女王を見ていると、無性に苛々が募ってくる。まるで自分の将来を見ているような錯覚を感じるからだが、そのことに私自身は気づかないふりをしていた。

「──でも」

『しつこいわね! 玉卿にはね、さっきの卒業課題の成績をつける大切な仕事が任されているのよ。忙しいのが解らないのかしら。そうそう、卒業課題と言えば、貴方の義兄がやった舞台演劇は一体何なの。巫山戯るのも大概にして欲しいわ。担当の玉卿が叱責されるってことを解っているの? 幾ら呼び出しても鑑文升は全く姿を現さないし』

 ──姿を現さない?

 何だ。いったい鑑文升は何をやっている。猿仮面の正体も知っているような様子だったし、勿体ぶるのもいい加減にして欲しい。その時である。唐突に、場違いなほど軽薄な声が聞こえてきた。

「ああもう、そこの二人、一体君らは何でそんなに陰気なんだ。僕の目には渦巻く陰鬱な瘴気がはっきりと見えるよ。全く鬱陶しくて仕方がないね!」

 失礼な言い草に振り返れば、その声の主は学長席に座している。それは副学長ではなかった。副学長は何処かへ出かけている。それは二十代前半と思しき秀麗な若者だ。黒頭巾をかぶり、京劇俳優のような化粧をしていた。服飾はポロシャツにジーンズと言ったもので、頗る簡素である。

 私は、この若者を何度か雑劇学院の施設内で見かけたことがあった。失踪事件を捜査している絳桃公安警察の刑事である。確か、名前は廬応京といったはずだ。

 廬応京は、蜂蜜をたっぷりとかけた亀苓膏(ゼリー)を苦そうに見やったあと、こちらへ視線を寄越した。

「黄先生もさぁ、そう頭ごなしに生徒の訴えを退けるるもんじゃあないと思うな。今日の僕は物凄く不機嫌でね。と言うのも山高帽子を被った如何様野郎に一杯喰わせられたからなんだ。紅南瓜っていうのかい? 君さ、気分転換のために相談に乗ってあげるよ。何たって僕は刑事なんだから」

 はしゃぐようにそう捲し立てた後、廬応京は私のことを真っ直ぐに見据えてくる。その双眸が余りに真摯だったので、私はこの刑事に縋ることにした。龍宮粥面で起こったことから、劇場で猿仮面によって脅迫されたことまでを話す。

「廬刑事は失踪事件の捜査をしに、雑劇学院へ来たんですよね? 私、思うんですが、あの猿の仮面を被った男がその犯人なんじゃあないかと」

「なるほど、つまり紅南瓜はその失踪者の名簿に名を連ねることになってしまうのじゃあと、不安で仕方がないわけだね」

 そう首肯をしながら、廬応京は亀苓膏を掬った。亀苓膏は亀の甲羅と漢方薬を煮込んだ漆黒のゼリーで、体内の熱を放出させたり、コレステロールを調整したり、胃腸の調子を整えたり便秘の解消をしたりといった幅広い薬効がある。これは飽くまでも薬であって、蜂蜜をかけなければとても食べられないほどの苦さだから決して嗜好品ではない。廬応京は健康に気を遣う人間なのかも知れない。

「有り難う小姐、君の話はとても捜査の参考になったよ。要するにこう言うことなんだね。猿の仮面を被った不審者を見つけて、逮捕すればいいわけだ」

「──い、いえ、猿の仮面は自分の正体を隠匿するためのものなんですから、普段は被っていないんじゃあ」

「あはは、そんなこと解っているよ! 結構頭はいいみたいだね。南瓜なのに。脳味噌とかどうやって入っているんだろうね。不思議だなあ。拳銃を持った猿仮面だなんて凄い想像力だよ。不思議と言えば、黄陛下も大概不思議だしね。何考えているんだか、人形が喋るわけないじゃあないか。それを友達と思いこんでいるなんて、あはは」

 廬応京が黒頭巾を揺らしてそう嘲笑った瞬間、私が仄かに抱いていた希望はみるみる失望に転じてしまった。結局信じてなどいないではないか。傍らを見れば、黄玉卿が蒼白な顔をして中華人形を抱きかかえていた。また癇癪が始まるのかも知れない。それとも、都合の悪い部分は聞こえなかったふりをするのだろうか。

 結局、私は身辺の警護を頼むことも忘れて廬応京の適当な雑談相手を延々とした後、謁見室を追い出されてしまった。

 味気のない混凝土製の廊下で、途方に暮れた。何処で間違って仕舞ったのだろう。相談しに行った相手が黄玉卿だったせいだろうか。しかし、担任でもない教師にわざわざ相談をする大義名分が存在しない。必然性もなく他人に喋りかけるのは嫌だ。

 私は女王に直訴さえすれば、後は勝手に警察まで話が伝わって何とかなるのだろうと高を括っていたのだが、不運なことにその警察でも最も程度の低い刑事が謁見室で休憩を決め込んでいた。あの様子を見る限り、廬応京が警察に連絡して私の問題に対応しようとするとは思えない。中途半端に刑事に説明したせいで、正式に警察へ通報する時機までも逸してしまった。

 ──このまま、猿仮面の接触を受け身で待つしかないっていうの?

 私は、鬱屈とした気持ちで窓を眺めやった。まるで鉛筆を立てたように、犇めきあって群立する長嘯の摩天楼。その天蓋はすでに薄暗い。黄昏が夜の漆黒に取って代わられようとしていた。吐瀉をするは正体不明の変人に狙われるはと、全く今日は最悪な一日である。

 あの猿仮面は何が目的で私を脅すのだろう。考えてみれば奇妙だ。私を殺したいのなら、何故劇場でそうしなかったのか。中途半端に接触を図ってきて、何か得でもあったのだろうか。何だか麺がどうしたとかわけの解らない御託を述べて──

 ──天蓋から下界を見おろすんだ。

 天啓が降りたような気がしたのは突然のことだった。私は黄昏色の空から視線を逸らし、廊下の奥を直視する。そこには非常階段が設けられており、隣り合うようにして薄汚れた昇降機が佇んでいた。

 無意識の内に、私は昇降機の眼前まで歩み寄っていた。憑かれたようにその門扉を表示盤を見あげる。そこにはRという屋上を指し示す標記があった。ビルの屋上、即ち天蓋から見下ろすと何かが解るということだろうか。考えながら、私は上向きの矢印を押していた。

 暫くして着いた昇りの駕籠に乗りこむ。それは緩慢な速度で上昇をし始めた。この昇降機の駕籠が行き着く先、屋上には機械室があるはずだ。機械室には電動機を組み込んだ巻上機があり、そこに取りつけた回転車に鋼索が連結されていた。駕籠はこの鋼索によって吊られている。ビルそのものが負荷を負って支えていた。

 昇降機に乗ったはいいものの、私は怯え始めていた。何か、何か大切なことを忘れている気がしてならない。猿仮面のいうことを素直に聞いていいのだろうか。

 そもそも、ビルの屋上に何があると言うのだろう。屋上といったって昇降機の機械室や空中線が犇めいているだけで、特別景観が綺麗なわけでも何でもないのだ。だから屋上に用事のある人間など滅多にいない。行ったことがあるという話も聞いたことがなかった。私は尤も根源的なところで間違って仕舞ったのかも知れない。猿仮面の暗喩を正確に理解し得ていない可能性だってある。

 だが、このまま何の解決もないまま一日を終えるのは嫌だった。私は煩わしいことを先延ばしするのは大嫌いなのだ。それはそれだけ憂鬱な状態の先延ばしを意味するからである。しかし本当は、問題を解決するために積極的な行動を起こすことのほうがもっと嫌いだった。要するに性根が腐っているのだ。

 私は表示盤を見あげる。表示盤には一から十五階とRが表示されていた。今現在表示盤に点灯しているのは十一階の部分で、そこから十二階へと移行しようとしていた。上昇する駕籠の中では乗員が犇めきあっている。私は隅の壁面に押しつけられていた。定員は六名なはずなのに、何故か九人も乗っている。その中の一人が大きな声で鼻歌を歌っていた。私を併せて他の八人は全員迷惑そうだったが、注意する者は誰もいない。

 ──苦しい。

 密室のせいだ。酸欠で呼吸が苦しくなってきた。顔面から血の気が退いて行くのが解る。貧血の一歩手前だった。私の精神の堤防は、張り詰めた緊張を強いられているせいで決壊してしまいそうだった。鋼索が切れたら駕籠はどうなるのだろう、などと埒もないことを考える。普段は気に止めないことまで不安に感じた。

 制動機が効かなくて十二階分の距離を落下すれば間違いなく死ぬだろう。最下層の床面には衝撃吸収装置があると聞いたことがあるが、到底そんなものを信用する気にはなれなかった。

 昇降機が十三階で止まった。駕籠の門扉と外の門扉が開く。放射線状に伸びる駕籠の照明に照らされて、廊下が左右へ走っていた。全ての人間がそこで降りて行く。

 私の眼前で二重の門扉が厳かに閉じられていった。昇降機の乗員が十四階で全員降りてしまったので、駕籠の中には私だけが取り残される。耳が痛くなるほどの静謐が襲ってきた。満員だった時には誰があの猿仮面かも知れないと不安で仕方がなかったが、こうして独りになると逆に心細い。

 それでも取り敢えず人数は減ったのだ。大分呼吸が楽になったのを感じながら天蓋を仰いだ時、私は換気扇に気がついた。何だそれは、と拍子抜けする。酸欠だと思っていたのは勘違いで、実はただの閉所恐怖症の症状だったというのだろうか。

 室内は蛍光灯によって煌々と照らし出されていたが、何だか空々しかった。この駕籠の蛍光灯は、一定時間乗員が不在になると節約のために落とされるらしい。紅南瓜は一回だけ門扉が開くと同時に蛍光灯が灯ったのを見たことがある。細かいところで貧乏臭い話だと思う。

 駕籠の操作盤では屋上の表示が点滅していた。雑居ビルは百五十五階建てなのに、百五十四から跳んで屋上になるのには理由がある。十五階は学長専用の空間なのだ。ビル管理室と、学長の家族用の居住空間がある。

 専用の操作をしなければ、昇降機は止まらないことになっていた。階段を使っても十五階の入口は鋼鉄の門扉で隔離されている。そのまま素通りして屋上に出て仕舞うのだ。

 ──帰りたい。

 静謐に煽り立てられた不安に押されて、私は往生際の悪い後悔し始めた時である。つと、神経に障る耳障りな雑音が駕籠の中に聞こえてきた。

 何かが蠢動する音だ。私は制服に覆われた身体を硬直させた。密閉された空間に独りだけ、聞こえてくる雑音は不安を更に煽る。南瓜の顔をあげた。三日月型の双眸で、表示盤を見やる。昇降機の現在位置は十四階から十五階の間だ。それきり雑音は途切れた。昇降機が上昇する駆動音しか聞こえない。

 ──何、一体何だったの?

 その衝撃がやってきたのは、蹙眉して少しだけ緊張を緩めた瞬間だった。駕籠が上下に大きく揺動し、蛍光灯が明滅する。私は酔漢の千鳥足のようになって蹌踉めき、そのまま壁面にぶつかった。激痛と混乱と恐怖とで、咄嗟に状況を掴めないまま悲鳴をあげる。車椅子用の手摺にしがみつきながら蒼白になった。

 悪夢が現実になったのだろうか。即ち、昇降機の転落事故である。最悪の想像をして眩暈がした。しかし、それにしてはおかしい。駕籠は変わらず上昇をしているようだ。

 上昇するに連れて密度を増す雑音が、十五階の位置になって絶頂まで達する。それは正体不明の、それでも嫌悪感を醸し出す大気の咆哮だった。数百人の僧が駕籠を取り囲み、一斉に経文を詠唱しているかのようだ。門扉を見れば、何かが叩きつけられているように震動していた。その鳴動と駕籠の震動との恐怖で、私は思考能力を失ったまま声にならない絶叫をし続けた。

 その異常が収まったのは昇降機が十五階を通り過ぎた時である。まるで何事もなかったかのように雑音と震動が消え、駕籠は屋上へ向かって上昇をし始めた。

 それでも抜けた腰は元に戻らない。駕籠の床にへたりこんだまま、私は永遠にも思える間茫然自失していた。

 暢気な効果音と共に、風俗の貼紙が貼られ、陰茎の書き殴られた門扉が開く。逢魔が時を越え、外はもう夜だ。轟々と強い風がそこら中の障害物を叩いていた。夜気が肌寒い。

 私は昇降機から出てすぐ、混凝土製の地面に吐瀉をした。その自分の吐瀉物を見て更に気分が悪くなる。俯いたままぜいぜいと呼気を荒くしながら、混乱する南瓜頭を整理しようとした。

 百五十五階だ。百五十五階で、昇降機はおかしくなった。突然、地震が起こったようにがたがたと振動して。それに、あれ。あのざわめきのような異様な音は何だったのだろうか。そもそも自分は一体何をしにこの屋上へ来たのだ。贈り物、麺、そうだ、失踪事件の犯人に脅されて。いや、違う。失踪事件の犯人とは限らない。しかしそれなら何故こんなに怯えているのだったか……。

 ──駄目だっ

 錯乱している。集中して物事が考えられない。冷静になれ。そう自分に言い聞かせながら視線をあげた時、私は目眩がした。

 ──うう、

 屋上は昨日降った雨のせいで所々が時化って変色している。そこら中に水溜まりが出来ていた。その見渡す限りの空間に、南瓜提灯がわらわらと蠢いていたのだ。ギザギザにとがった漆黒のアンテナ一つ一つに南瓜の首が突き刺さっている。その双眸の奥からは、灯された蝋燭の明かりが漏れ出ていた。

「…………」

 呆然としながら蹌踉めいて後退すると、昇降機の門扉にぶつかった。反動で漆黒の塗料に塗り潰された夜空を見上げる。そこには、蜜柑色をした南瓜がぽっかりと浮かんで何かを嘲笑っていた。

 ──ああ

 南瓜は瞬きをしていた。げらげら、げらげらと嘲笑が聞こえる。南瓜頭の耳を塞いでもそれは消えない。頭の中にまで染み込み、激痛が走った。視界が狭窄する。私は呻いた。

 ──南瓜、南瓜は嫌だ。

 前触れなしに漆黒に閉ざされた視界。それは、初めて南瓜提灯を被らされた時の恐怖の記憶だ。思考の表層に、思い出したくもないのにその記憶が浮上してくる。

 その恐怖の対象、南瓜提灯が自分の周辺をぐるりと取り囲んでいる。逃げ場はない。後背の昇降機にはもう乗れない。

 そうやってガタガタと震えていた時である。遠くから、奇妙な物音が聞こえてきた。がさがさ、がさがさ、とそれは繰り返される。屋上を見渡すが、そこには現実感のない南瓜の群しか見えない。

 ──何だろう。

 私は音に誘われるようにふらふらと歩いていった。どうやら物音は、隣接したビルの屋上からしているようだ。昇降用のロープがあったのでそれについた握りを掴む。重りを蹴り落とすと、それは私の体を高く持ちあげ始めた。隣接したビルの、屋上が近づいていく。
 
 茫洋とした私の頭を、天蓋から南瓜提灯が見下ろしていた。

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