WEB小説「憂鬱を育む蟲」~第一章、皿に盛られた蒴果(さくか)6~

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 一から三階をぶち抜いたその黴臭い空間が、新たに雑居ビル内部へ設けられた舞台劇場である。証明は輪廓の曖昧になるほど弱い。ここが完成するまでは、雑居ビルの屋上にあった煉瓦製の劇場を使用していた。

 雑劇学院における財務状況の関係で、新造というわりには劇場の内装は安あがりだ。壁紙や化粧板(タイル)も要所要所に使用されてはいるが、天井や壁面、床面などの殆どの部位が混凝土や大理石(マーブル)を剥き出しにさせていた。掃除も満足にされていないのだろう、そこら中に塵芥が散乱している。

 この舞台の一段下に観客席が広がっている。その一部を生徒の学生服が疎らに染めていた。上級生による卒業課題を観劇させられるのだ。他愛のない雑談をする声が神経に障る。観客席の一脚に座し、南瓜娘は口を嘲笑う形に開けたまま鬱屈としていた。

 胃酸で焼けた喉が気になる。昼食を全部吐瀉してしまったのに、何故か空腹感は感じなかった。あの時の、麺に対する飢餓感は一体何だったのだろうか。結局、十八人前もの麺食品を贈答してきた差出人の正体は判明しなかった。そこに盛られていた黒ずんだ異物の正体もだ。蟲のように見えたそれは、掴んでみればただの塊だった。

 その一件が脳裏を過ぎるだけでも鬱屈としてくる。早退してもよかったが、雑劇学院側に理由を説明するのが面倒くさくて授業に残った。文升は、昏倒した南瓜娘のことを放置して何処かへ消えた。授業には出席していない気がする。探偵気取りで差出人の素性を調査しているのだろう。多分、その正体を幾らか掴んでいるのだ。

 思考の袋小路に行き詰まって注意散漫になっていると、膝上から鞄が椅子の下へとずり落ちた。嘆息と舌打ちを同時にし、南瓜娘は劇場を眺め渡す。

 南瓜娘の周辺は、座席の列によって埋め尽くされている。劇場には観客席が全部で四六〇席あり、補助席を会わせれば五〇〇人が収容可能だった。この観客席の両側には桟敷(バルコニー)が設けられ、一八席の座席が追加されている。桟敷は管理要員や教員が使用していたが、文升が龍宮粥麺でいっていたように副学長は不在のようだ。

 劇場の後方には音響の制御室が設けられてある。この音響設備は四部分に分けられていた。第一は上演時に使用をする音楽のための設備、第二は上演時に鳴らす効果音のための拡声設備、第三は上演時に演じる俳優(アクター)のための拡声設備、そして第四は中継放送用の拡声設備である。

 この劇場の場外には休憩室がある。雑劇学院なだけあって、これは学習室にも兼用出来るよう工夫されていた。他にも男子用女子用の厠所(トイレ)があり、楽屋や玄関(ロビー)もあった。この玄関を通って、長嘯の住人達が教職員たちによる演劇を観劇しに来るのだ。

 この雑劇学院のビルは二十階建てだ。学食の龍宮粥麺はこの内の左館にある。二十階では失踪した学長一家が居住していた。

 紅南瓜はそれらの大雑把な見取り図を思い浮かべながら、視線を前方の舞台へ転じる。この舞台は大雑把に前、両脇、後ろの三部分に分けられていた。管弦楽団席(オーケストラ・ボックス)は前舞台の更に前にある。

 舞台には様々な設備が搭載されていた。昇降して尚かつ回転する舞台や、緩衝機(クッション)によって稼動する舞台などがそうだ。因みにこれらの設備は他惑星の代物だったので、故障した時には部品を未来永劫取り寄せられないという不便さがあるらしい。

 舞台の後方にはホリゾントという特殊な壁が設けられている。ここには演出に効果的な空などの幻灯(スライド)を映し出す。幻灯と言うのは絵画や写真、玻璃板に描いた絵などに強い照明を当て、その透過光または反射光を凸レンズによって拡大映写したものをいう。

 今、この舞台には樹の張子と鞦韆(ブランコ)の小道具が設置されてあった。鞦韆は天井から吊られてある。ルノワールがとうとかいっていたが、彼の絵画に『鞦韆』というものがあったはずだ。ホリゾントに極彩色の幻灯が映写され、木陰を模した幾何学模様が演出されている。そんな舞台を茫洋と眺めながら、落とした鞄を拾おうと腰を屈めた時である。

 紅南瓜の頭上で電鈴が鳴った。放送が上級生による簡易演劇の開幕を告げる。最初の演目は文升の班だった。

 放送後、舞台袖から登場したのは紺青の装飾紐をつけた婦人服姿の女性だった。盛大な拍手と歓声が起こり、屋内だというのに爆竹が鳴らされる。この行動は熱心と言うより巫山戯ていた。少なくとも演劇を観劇しようという態度ではない。何時ものことだが、桟敷の教師達は表情を曇らせていた。

 紅南瓜は屈んだまま何とはなしにその貴婦人を見、そして頭にあった南瓜の被り物を見て仰天した。

 ──な、

 この雑劇学院では、南瓜人は自分以外に在籍していない。どう考えても、あの貴婦人の格好は紅南瓜か母親の歌う南瓜を暗喩していた。一体文升は何がしたいのだ。

 眩暈を感じながら動作を止めていると、床の鞄が何者かに拾われた。無造作に埃を払い、こちらへ渡す。前触れのない他人の好意に、紅南瓜は少し動揺した。ろくに顔も見ようとせず、もごもごと陰鬱な声で謝辞を述べる。いや、といったのは男の声だった。劇場の照明は落とされていたので容貌が判然としない。帽子を被っているのは解ったが、何処かが不自然なような気もした。

 淡い不審を抱いている内に演劇が始まる。紅南瓜は慌てて舞台へ視線を戻した。南瓜婦人は舞台袖から中央まで歩み寄り、楊柳の樹にかけられた鞦韆に腰を下ろす。それを証明が追いかけた。舞台にはただ鞦韆と樹とが佇んでおり、木漏れ日を模した証明がそこを静かに彩っている。

 押し黙ったまま、その南瓜婦人は楊柳の影から一枚の皿を取りだす。そこにはなんと、茹であげられた湯麺が乗せられてあった。南瓜婦人は杉製の割箸を割って戴きますと宣い、そのまま湯麺を啜り始める。

 ここまで僅か一分だ。酷く理不尽な展開である。何故、そんなところに麺が用意してあるのだ。整合性などまるで存在していない。学生達は勿論、教師達も呆気に取られて眺め遣っていた。紅南瓜だけがこの茶番劇の意味を何となく理解しかけている。

 これは多分、龍宮粥麺で起こった変事の再現なのだ。しかし、今この舞台でそんな悪巫山戯をする意図が皆目解らない。文升にとってはこの卒業課題は最後の好機なのに。退学が恐ろしくないのだろうか。

「ああ美味しい。それにしても、この湯麺をここへ置いたのは一体誰なのかしら」

 南瓜婦人は麺を咀嚼しながら首を傾いだ。恐るべき状況認識の遅さである。道端に放りだしてある食物を、何の懸念もせずに口にするなど普通あり得ない。

 ──いや、ある。あったんだ。

 それは、今日の龍宮粥麺での自分自身のことだ。客観的に見れば同じようなことを紅南瓜はしていた。それにしても、南瓜婦人は観客の動揺など何処吹く風だ。これは脚本を書いた文升の失態であって、自分には関係ないとでも達観しているのだろうか。

 するとその時である。唐突に楊柳の樹の後ろから男の半身が覗いた。またしても脈絡のない展開である。紅南瓜はその男に対して軽い既視感を覚える。男は暫くの間南瓜婦人のことを覗いた後、張子の楊柳を揺すり始めた。すると、こんもりと繁茂した葉の間から正体不明の塊が降り出す。

 あれは、と紅南瓜は蹙眉する。その塊は湯麺の中にぼとぼとと落ちて行った。焦茶色の飛沫が南瓜婦人の高そうな婦人服を叩く。しかし、南瓜婦人は全く気づきもせず、一心不乱に湯麺を啜り続けた。当然、口内でがりっという小さな異物音が立ち、南瓜婦人は無表情なまま呟いた。

「何かしら、しゃりしゃりする。変な塊が湯麺に紛れ込んでいるわ」

 この科白を待っていたかのように、舞台袖から肥満した男が現れた。文升である。紅南瓜は陰鬱に眉を顰めた。麦藁帽子を被っており、一応は「鞦韆」の場面をなぞっているようだ。鑑文升はそのまま舞台中央まで歩み寄り、楊柳の傍らに立った。

「そこの鞦韆に腰かけた小姐、小難しい南瓜顔をして一体どうしただい?」

「よくぞ尋ねてくれました、見知らぬ親切な人。実は、鞦韆へ置いてあったこの湯麺に、こんなものが入っていましたの」

 言って、南瓜婦人は割箸で湯麺から漆黒の塊を取り出した。それを見て紅南瓜は瞠目する。それは、自分への贈与品に入っていた異物だった。すると、あの楊柳の樹を揺らした男は差出人を暗喩しているのだろうか。

「これは一体何だと思います?」

「どれどれ、一つ博識な僕が見てあげよう。──うん? これは楊柳の蒴果(さくか)じゃあないか」

 ──蒴果?

 紅南瓜が観客席で蹙眉すると、舞台上の南瓜婦人も小首を傾いだ。

「蒴果というと?」

「うん、蒴果ってのは要するに種なんだ。楊柳は花をつけた後、この蒴果を結ぶ。そして、この蒴果は成熟後に破裂して無数の種を撒き散らすんだね。そういう種の話は、生物の授業で聞いたことがあるだろう? ここで一番問題なのは、何故そういった蒴果なんてものが貴方の湯麺に入っているかってことさ。その答えは、湯麺を置いた匿名の差出人にある」

 樹を見上げたまま文升はそう言う。南瓜婦人ははっとして鞦韆から立ちあがった。寒色の幻灯が、暖色の婦人服に描出されて鮮やかな模様を作る。

「あ、貴方は、もしやこの湯麺の贈り主を御存知なのではないのですか?」

「確かに知っている。知っているが、残念ながらそれを貴方に教えることは出来ない」

「ど、どうして、何故ですの?」

「それも事情があって教えることができないな。ただね、貴方に一つだけいえることがある。親切さを装った人間の言葉を信用すると、決して逃れられない泥沼へ嵌る。好奇心は自分自身を殺すことになるよ」

 文升がそういった途端、舞台照明が消えてしまった。薄闇の中で俳優が舞台袖に消えたのが解る。何の説明もないまま、演劇は一方的に終了してしまった。

 無茶苦茶だ。紅南瓜は呆然とする。観客席の学生達が一斉にどよめき始めた。桟敷を見れば教師連中が難しい表情で何かを話し合っている。暫くすると黄玉卿が立ちあがった。それを見た瞬間、紅南瓜は上級生が今年も卒業出来ないだろうことを悟った。事実上の退学である。

 ──結局、何だったのよ。

 紅南瓜は混乱する。文升はあの異物の正体が蒴果だということを教えたかったのだろうか。しかし、直接教えずに劇中で伝えようとした意図が解らない。しかも肝心の贈り主の正体を明かさないのは何故だ。贈り主が贈物に楊柳の蒴果を混入した理由も不明である。あのいい回しからすると、文升は贈り主を突き止めたようだが。

 途方に暮れていると、電鈴が鳴って次の演劇が開幕した。学生達は、釈然としない様子ながらも舞台の鞦韆に視線を集中させる。結局意味なんてなかったのかも知れない、と紅南瓜が思考することから逃避をしようとした、その時である。凭れて体重をかけた鞄から、何かが砕ける異音が聞こえた。

「…………」

 鞄に割れるようなものを入れた記憶はない。眉根を顰めて鞄を開けると、教科書に埋没して何かの破片が見えた。脳裏を疑問符で埋め尽くしながら、紅南瓜はその破片を掌中に収めた。鞄から外に出し、薄闇の中で注視する。細長くて白っぽい。そしてその正体に気がついた時、紅南瓜は全身を硬直させた。

 粉々に砕けたそれは、乾燥した湯麺の固まりだったのだ。その合間から、漆黒の蒴果が転がり落ちる。

 ──う、

 紅南瓜は開幕前に鞄を拾い上げた隣席の男のことを思い出し、恐怖に戦慄する。入れたとすれば、この男以外にいないではないか。だから慇懃無礼な声がその右隣の席から聞こえて来た時、素手で心臓が鷲掴みされたようになって動けなくなった。異様な威圧感が押し寄せてくる。

「知っているかい?」

 隣席の男は舞台を見たまま、喋りかけると言うよりも独白するように言葉を紡いだ。

「麺っていう食品は、天下の至宝なんだ。何故そうなのかって? だって、麺の原料は勿論のこと麦だろう? 麦は秋に種蒔きをして、次の年の夏までをかけて稔る。そう、こうやって天地四季の全気を受けて出来るんだね。すると畢竟、麦が原料の麺にも天地四季の全気が宿っていることになるんだ。だから麺は天下の至宝なんだよ。と、聞いるかい小姐? 私の話が解ったかな?」

 抑揚のない声で支離滅裂なことを言って、男はこちらを覗き見た。舞台照明で薄く判別出来たその男は、肩の部分に豪奢な飾りつけを施した外套(マント)を羽織っていた。腰に大仰な革帯を巻いているところが特撮映画の英雄(ヒーロー)を彷彿とさせる。そしてこの男の頭部には、人間の代わりに猿の顔があった。猿の仮面を被っているのだ。その猿の仮面の上から更に獅子(ライオン)の獣皮を被っているのを見るにつけ、紅南瓜は恐怖で竦みあがった。

 錯乱状態になった紅南瓜は猿仮面と反対の座席へ視線を移そうとした。助けを求めようとしたのだ。すると突然腹部に衝撃を受ける。息を吐き出し、紅南瓜はそのまま蹲った。猿仮面に何かを突きつけられたのだ。腹部を見ればそこに、漆黒の金属光沢を放つ自動拳銃の銃身が覗いていた。一瞬にして蒼白になる。声を出すことが出来なかった。

「何故麺を、楊柳の蒴果を献上されなければいけないのだろう? 自分が。一体この猿仮面は何が目的なんだ。小姐は今混乱しているはずだ。無理もない。だが、私が出来る助言はただ一つだ。もしもその疑問を晴らしたいのなら、天蓋から下界を見下すんだ。いいかい? 天蓋からだ。それが唯一の答えさ」

「──天蓋から」

 紅南瓜が喘ぎ声をあげると、猿仮面は行き成りくぐもった嗤い声をあげた。声を立てず、肩を痙攣させて哄笑する。その痙攣に併せて自動拳銃も揺れ動いた。紅南瓜は何も言葉が出ない。そこで、唐突に雑劇学院の失踪事件と猿仮面の顔とが重なり合った。

 ──殺される。

 失踪事件の真相は、失踪者の行方は。全てこの猿仮面が殺していたんだ。そう確信をして戦慄した時である。それまで醜悪な笑みを浮かべていた猿仮面が、突然何かに気がついたように苛ついた表情をした。自動拳銃を押す力を強くする。

「いいかい、例えるならこの雑劇学院は牢獄なんだ。僕だけがその牢獄の檻を解き放てる。あの肥満した学生が何やら立ち回っているけど無駄なことさ。事態の深刻さを、何も理解していないんだ」

 低音でそう囁いた後、舞台に灯されていた照明が消えた。視界が漆黒に塗り潰される。拍手と歓声が響くなか、腹部にあった自動拳銃の感触が消えた。同時に、猿仮面の気配も消失する。それでも、紅南瓜は長時間に渡ってその場に凍りついていた。

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