WEB小説「憂鬱を育む蟲」~第一章、皿に盛られた蒴果(さくか)5~

WEB小説 本文

 吹き抜けの欄干に、統一された朱塗りの装飾が施されている。細かい塵埃が舞い上がっており、視界は茫漠として掴み所がない。その地下賭博場に入ってすぐ、黎小姐は芳しくない事項が起きているのを察知した。賽子の会場に人集りが出来ているのを、額の一角が捉えている。一角は独自の像でもって世界を構築してくれた。とはいえ、垢染みた格好をした連中に囲われて、肝心の何が行われているのかは判然としない。

 端末へ待ち合わせ時間変更の連絡を受けたときから、何となく嫌な予感はしていたのだ。 黎小姐は舌打ちをこらながら人垣を乱暴に掻き分ける。それが途切れるとともに、捉えられる範囲が扇状に拡散した。黄昏色をした裸電球の下、賽子の机を挟んで人面鷹を肩に乗せた壮年(あれが葉頴達か!)と、黒頭巾を被った青年が対峙をしている。

 ──何やってんだよ。

 一角が指し示す直線上の先、机上には大量の黒硬貨と、拳銃が置いてあった。ラシアンルーレットを始める気だ。決まっている。厄介事をおこす役人に憤りを感じた。しかし、別に制止しようとは思わない。このまま死ねば死んだで困りはしないからだ。そこまでの責任を負う裁量は与えられていない。だから少しだけ興奮しながら見物人に加わった。

 頴達は、机上にある小箱を落ち窪んだ目で見やっている。そこに格納されてあった五個の賽子の内、二個を片手で摘んだ。片手で、しかも掌中に隠さないのが如何様防止の原則である。この賽子は真紅だ。透明な樹脂で出来ていた。透明(スケルトン)なので内部の成分が均一なことが解り、数字も彫刻していないので重量の不均一はまずないと思っていい。

「この二つの賽子の目の合計が、奇数か偶数かを予想して順番を決めるぜ。俺が投げるから御前が選択しろ」

「なら偶数を」

 若者がそういうと、頴達は首肯して賽子を中空に投擲した。二個の半透明な立方体が重力に逆らい放物線を描く。賽子はその限界地点で交錯し、次いで浮力を失い落ちていった。数回跳ね回り、跳躍力がなくなったところで、漸くころころと回転をし始める。合計十二の面に記された数字が途絶無く変化し、漸く動作を止めたときに賽子が指し示していたのは二と三だった。

 奇数である。頴達の勝ちだ。

「何でここで奇数が出るかなぁ」

 若者が、シャツの釦を弄りながら往生際の悪いことをいう。頴達は机上の拳銃を掌握し、銃口をその若者の頭部まで持ちあげた。持ちあげたまま鷹揚に撃鉄を起こす。人垣の、そこだけに慌てたように穴が開き、黎小姐は一人、銃口の軌道上に取り残された。緊張の漣が賭博場に迸る。

「文句をいっていられるのは今のうちだぜ。一度でた賽子の目は絶対なんだよ。いいか、一応忠告しておくぜ応京、死にたくなかったら避けるんだ」

 誰が避けるかと、その応京と呼ばれた青年が胸郭を反らす。頴達は満足げに笑んだ。この状況を心底から楽しんでいるのだ。一見普通そうにみえたのだが、どうにもそれは黎小姐の審美眼が錆び付いていたせいのようだ。そんなことを考えているうちに、引金(トリガー)に添えた頴達の人指し指、その関節が緩慢に屈伸していった。その引金が下ろされた瞬間、黎小姐は思わず唇を噛む。着弾点を中心に崩れ落ちる顔、まき散らされる脳漿、匂い立ち、場を暗く彩る血糊の飛沫。

 がちり……。

 しかし、黎小姐が勝手にした凄惨な妄想は、現実には展開されなかった。一発目の弾倉は空だったのだ。緊張が解け、見物人がどよめいた。一時休戦というわけだ。

「危ない危ない。確か、何回撃たれるかは撃たれる側が決めるんでしたね。でもまあ、俺はもう交替します。こんな心臓に悪い趣向は一回きりで充分だ」

 応京が笑みを零し零しそういったときである。頴達の窪んだ双眸と、黎小姐の一角とが交錯した。

 ──あ、

 ──応京は紙巻き煙草を銜え、ジッポで先端を燃いた。如何にも死線を乗り越えたといった風にぎこちなくだ。肺胞一杯に紫煙を吸引し、胸郭を軋ませながら中空へ燻らせる。大気に渦巻くそれは、何だか幽鬼がする苦悶の形相にみえた。頴達が縦長の顔を顰める。あからさまに迷惑そうにだ。

 一々癪に障る男だ、と思う。応京はその山高帽を睨みつけながら洋杯に紙巻き煙草を躙りつけた。急激に冷却された葉が断末魔の叫び声を声をあげる。そして灰色に混濁する洋杯を片目に、隣に置かれた拳銃を取った。このとき、応京は心中で相手のことを嘲っている。

 応京は如何様をしている。弾倉の何発目に弾が入っているのかを知っていた。細工をしたのは拳銃を投げ渡されたときだ。その際、頴達は一瞬余所見をした。その隙に弾倉の四四マグナム弾の位置を入れ替えたのだ。そして頴達が振り向いてから弾倉を回転させた。適当な風に装った、その回転数が計算尽くだった。

 弾は六発目にある。回転数はともかく、装弾位置を隠していたのだから頴達には解らない。でなければ誰がこんな狂気じみた賭博を受けるだろう。応京は自分を取り巻く環境を見渡した。しけた星の、しけた人間の、しけた面。皆娯楽に飢えているのだ。殺し合いをしているのに支配人が沈黙しているのは、客寄せになるとでも考えているのか。否、応京の肩書きのせいかも知れない。

 拳銃を頭の高さまで持ちあげると、照準をあわせた先、頴達は他人事のように口を歪めた。それをみながら考える。この二発目が終わり、次の頴達に撃たせる順番に五発目まで撃ち尽くさせる。そうすれば自動的に勝ちだ。無為な殺人を犯すこともなく、目出度し目出度しである。

「さあおっさん、引金を引くけど覚悟はいいですね……。死んでも俺を祟らないでくださいよ」

「覚悟はいいが、祟らないとういう保証は出来ないな。死んだら吸血僵屍になって道連れにしてやるよ」

 減らず口を叩いていられるのも今のうちである。応京はその眉間に銃口を突きつける。そして顎を退き、充分に間を貯めて引金を引いた。──がちり……。空砲。六発目にあるのだから当然、真鍮製の筒は排莢されない。弾倉が一回転する。場に起こるのは緊張と緩和。頴達が大仰に胸郭を撫でおろした。

 そして、運がいいですね、などと白々しいことをいいながら拳銃を置いたときである。漆黒に白縞模様の袖から伸びた手に、右腕を掴まれた。

「まだだ、まだまだ」

 応京がその顔を見返すと、頴達は山高帽の鍔を傾けた。

「もう一発だよ。拳銃を持て」

「…………」

 応京は何となく押し黙る。普通、こんな危険の大きい賭博では出来る限り危うきを避けて消極的になるものだ。頴達の方が連続で撃たせようとするとは余り考えていなかった。すこし不安を感じながら、応京は拳銃を持ちあげる。そして再び引金を引いた。またしても、がちり……。回転する弾倉。これで三発目だ。しかし、

「まだだ、もう一発」

 頴達が異常な量の汗を浮かべながらそういい、観衆がどよめきはじめた。頴達の鬼気迫る様相が伝染したのか、薄く興奮し始めている。応京はただ口を開けていた。心臓が少しばかり浮つき始める。このまま五発目まで撃たされた場合、負けてしまうのではないのか。死に対して恐怖を感じないのか……。それとも、まさか如何様に気がついたのだろうか。いやそれはない。喩え疑念を持ったとしても、弾倉の何発目に四四マグナム弾があるのかを頴達が知るのは物理的に不可能だ。

 ──だが、もしもということも、

 負ける。一週間かけて積みあげて来た一〇〇万絳桃弗を、こんな奴のために失うのか。応京は憤りさえ感じながら四発目の引金を引いた。頴達の木彫り人形のような顔は、やはり吹き飛ばない。だが、その口から応京にとって意外な言葉が漏れた。

「──もういい。限界だぜっ、交替するよ」

 それを聞いた瞬間、応京を絡め取っていた緊張の糸は突如解けさった。見れば、頴達の手は小刻みに震えていた。そして瞳に狂気の光を宿らせたその姿をみて、全身の肌が粟立った。

 ──こいつ……。

 つまるところ、やはり如何様は露呈していなかったのだ。すると頴達は確率の有利不利も考えず、ひたすら勘に頼っていたことになる。はっきりいって馬鹿だ。根性でどうにかなるものではないのだ。無意識のうちに満ちてきた恐怖を拭うため、応京はそう心中で吐き捨てた。

 そして拳銃を緑色の机に置きながら、頴達を見やる。頴達は懐中から鉛筆の筺を取り出していた。一本抜き取って、銜えた。鉛筆を銜えたまま片手で拳銃を持ちあげ、応京の眉間に銃口の照準を合わせた。銃口の穴は深淵だ。漆黒に沈んでいる。その奥、弾倉の一段階隣の穴には四四マグナム弾が格納されているはずだ。

「……これで五発目か。弾が入っていようといまいと、これが決定打になりますね」

 勝利への喜びを噛み殺しながら、応京はそう促した。そのとき、頴達が鉛筆を銜えた口を歪めて笑った。そして語った次の言葉が臓腑を剔りとった。

「六発目だと思うか……」

 最初は意味が分からなかった。しかし、その言葉を脳裏で咀嚼し終えたとき、応京の視界は白く染まった。ポロシャツが、急激に噴きだした冷汗で重く濡れる。如何様がばれたのか、と焦る。一瞬、眼前の銃口を見やって血の気が退いたが、すぐに思い直した。この状況下で、自分が弾が六発目にあれと望むのは当然だ。頴達はそう予想をして、ごく自然なことをいったに過ぎない。

 しかし、応京は何度も精神を掻き回す頴達の言動に憤りを感じていた。その泰然とした面の皮を剥いでやろう。そう思って、落ち窪んだその双眸を睨みつけた。

「思う、じゃない。四十四マグナム弾は六発目の穴に格納されているんですよ。それは空砲さ。あんたは気がついていないようですけどね、僕は如何様をしているんだ……」

「知ってるよ」

 頴達は面白そうにそういった。それを聞き、応京は愕然として口を開けた。

「──知っているって……」

「俺が酒場で拳銃を渡した時のことだろう……。そんなことしちゃあ賭博の面白さが半減してしまうじゃあないか。そう思ってだな、親切な俺は弾倉を適当に回転させておいたんだぜ。だから、弾が何発目にあるのかは誰にも解らない」

「そ──そんな馬鹿な……」

 無意識のうちにそう呻き、応京は恐慌した。すると、一番最初に頴達に撃たれたとき、拳銃から四四マグナム弾が撃ち出されなかったのは全くの偶然だったというのか。頴達に向かって引き金を引いたとき、拳銃から四四マグナム弾が撃ち出されなかったのは全くの偶然だったというのか。それを認識した瞬間、背筋に電流が奔った。何だか解らない、今まだかつて感じたことのない感覚。

「き、虚勢ですね。俺は監視していたんだ。そんな隙はない。大体、隙があったのならどうして弾の場所を確認しない──」

「その顔を見るためだよ」

 底冷えする声でそういって、山高帽子の男は口内に銃身を突っ込んできた。唇が切れて鈍痛が頭に走る。何を、と、半ば泣きそうになりながら抗議の声をあげると、頴達は精悍な顔つきになって凄んだ。

「餓鬼がっ、遊びで一〇〇万絳桃弗もの大金が手に入るわけがないだろうが……」

 引金に力が籠められた。四四マグナム弾がこの五発目にあるかどうかはたった二分の一の確立だ。発射されれば間違いなく死ぬ。

 ──嘘だ。

 信じられない。こんな場末の賭博場で死ぬのか……。誰にも看取られず、下らない運否天賦の賭博の為に。怒濤のように襲った恐怖で躰が麻痺した時、引金が引かれようとした。

「──ひっ……」

 咄嗟に、応京は後背に倒れ込んだ。頴達の持つ拳銃の、唾液に濡れた銃身があらぬ方向を向いた。人面鷹が叫び声をあげ、音を立てて羽ばたく。

 銃声が賭博場内を反響した。

 悲鳴があがり、人垣が割れる。一瞬後、その銃弾は酒場の棚を貫いていた。汾酒、茅台酒、老酒(ラオチュウ)、菩提酒(ワイン)、紹興酒、威士忌(ウィスキー)、抜蘭地(ブランデー)。様々な種類の様々な酒瓶が、耳障りな音を立てて割れていく。細かく砕け散った玻璃と酒が、悲鳴をあげるバーテンに瀑布となって降り注いだ。

 一方、応京はそのまま後背にあった賽子の机上へ沈み込んでいた。机を倒し、真紅の賽子と三色の硬貨を撒き散らせながら床へ横転する。息の塊が吐き出された。

 背中に激痛が走る。それ以上に、直前まで自分の頭があったところを銃弾が掠めたことに衝撃を受けていた。弾は五発目にあったのだ。応京は負けた。自失したまま天井を眺めやっていると、頴達の顔が覗き込んだ。

「避けたな応京。まあどっちにしろ、賭博は俺の勝ちだったようだぜ。百万絳桃弗は貰ったぞ」

「……うう」

 頴達は散乱した黒硬貨を革靴でまさぐりながら、拳銃の弾倉を開けた。激痛を堪えながら起きあがった応京に向かって弾を投げる。応京は反射的にそれを手に取り、掌中を見てあっと唸った。その四四マグナム弾には真鍮製の薬莢があり、真っ新の火薬がつまっていたのだ。錯乱する。発射されていない。すると一体、応京の頭上を掠め、酒瓶を破壊し尽くした銃弾は何だったというのだろう。

 四四マグナム弾から目を逸らし、応京は説明を求めて顔をあげる。すると、山高帽の傍らに一角を生やした艶美な女がいるのに気がついた。どこかで見たことがある。その右手に自動拳銃が握られていた。微かに漂うのは硝煙の香り。

「──い、如何様だ、やっぱり銃弾は六発目に装填されていたんじゃあないか……」

 応京が床の黒硬貨を払い除けながら怒鳴り散らすと、頴達は泰然とした笑みを浮かべた。

「そういうことになるのかな。まあ、どっちにしろ、御前のような餓鬼がする如何様なんて高が知れている。六発目が一番当たり障りがないんだよな」

「な、何発目にあるのか見当がついているんならっ、小細工なんかせずに五発目まで撃たせればいいじゃあないか!」

「それだと面白くないじゃあないか」

 頴達が爽やかにそういった。女は無言だ。苦笑しながら応京の視界から遠ざかって行く。去り際に再見といい残した。

 ──どっちにしろ、賭博は俺の勝ちだ。

 呻きながら、音楽だけが虚しく響く賭博場を見渡す。頴達は何が何でも勝つつもりだったのだ。避ければ反則負け。避けなければ、あの電子眼鏡の女が撃った銃弾で死んでいた。如何様の真実は有耶無耶だ。女が来たのは偶然といっていたが、そんな都合のいい話はない。何て奴等だろう。滅茶苦茶である。

 砕かれた自尊心を見つめている内、応京の胸郭では二人の男女への憎悪の焔が萌芽していた。それは屈折した精神構造の中で、容易に殺意に変化し始めた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました