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貧弱な白色蛍光灯の照らしだす範囲は狭い。黴に浸食された天井には、この蛍光灯と共に扇風機(ファン)が据えつけられている。扇風機はそこでだらだらと羽根を回転させることによって、生暖かい空気を懸命に掻き混ぜていた。じっと見ていると、眩暈がするほど不毛な所作である。
南瓜女の丸々とした頭は、無表情な笑顔を張りつけたままその扇風機を見あげていた。そのまま頭を逆さにする。逆転した世界のなかでは、学生が机を占拠し群れ集っていた。大声でなされる会話が神経に障る。ただただ耳障りだった。
「──何よりも重要な問題は」
音を立てて粥を咀嚼しながら、文升がそう切りだした。頬が蠢くのと同時に、ピノッキオ鼻が上下に震える。南瓜は姿勢を戻し、壁際の座席を見やった。
「何よりも重要な問題は、誰が何故それを南瓜に贈ったかということだろう? 違うかな」
紳士帽子を被り直しながらそう尋ねた文升。その視線の先、龍宮粥麺の机は雑品によって占拠されていた。黒胡椒、食塩などの調味料や、割り箸入れに献立画面などがあり、傍らには烏龍(ウーロン)茶が入った急須が置いてある。そうした雑品を取り囲み、南瓜女の前には九枚の皿が並べられていた。
三皿は自分で注文をした湯麺である。この内二枚は既に平らげており、重ねて積みあげていた。問題なのは残りの大皿六枚である。これは自称機械人間のスグリーヴァに渡されたものだ。スグリーヴァがいっていた差出人不明の贈答品とは、六人前の麺だったのである。
スグリーヴァが退店してしまう、その前に聞きだしたところによると、以下のような経緯をへて贈答品は南瓜のもとへと辿り着いたらしかった。
スグリーヴァはその時、仕事の帰り際、龍宮粥麺で一人粥を啜っていたのだそうだ。狭い店舗のこと、選り好みしてられないので相席である。その相席相手が椅子を立ったとき、まるで見計らったかのように給仕が現れた。給仕は、この席へ南瓜人の女学生がくるから、その人物にこれを渡して欲しいと頼んできたという。そうして渡されたのが六人前の麺だった。
これだけ聞くと、訳の分からない展開である。勿論のことスグリーヴァもこの贈答品に不審を持った。しかし、一体何故こんな変なものを、と尋ねて得られた返答は、答えられないという実りのないものだった。聞けば、その給仕も乞食風の男に頼まれただけらしい。
ただでさえ不躾で図々しい要求なのに、更に給仕はスグリーヴァへ、贈答品を渡した後は即座に龍宮粥麺から去って欲しいと頼んできた。そして、誰がそんな面倒な頼みを引き受けるかという言葉は、少額とはいえない札束を前にして飲み干されたのである。結局、スグリーヴァはその場を去らず、その上、この顛末まで話してしまったわけだが──
「でだ、その内容に嘘がないことを前提に僕が推理するとだね、どうも差出人のやり口は回りくどい。おそらくその乞食も金で買収されたのだろうが、何が何でも自分の正体が知られないよう二重三重の手間をかけてある。そうまでしたのは疚しいことがあるからだ。ここが南瓜女のいつも使っている席だと知っているのも、気味が悪い点だな。解るだろう? これは南瓜女に正負いずれかの感情を持っている奴の仕業に違いがないのさ」
「……けれど、私にはそんな」
「心当たりがないって? だったら何なんだいこれは、まるで意味不明じゃあないか」
文升は如何にも深刻な問題だといった風にそういったが、完全に好奇心が勝っている様子だからまるで説得力が欠けている。一方、南瓜女は湯麺を頬張りながら脳裏に別の疑問符を浮かべていた。
──よりにもよって、何故麺なんだろう?
確かに南瓜女は数日前から龍宮粥麺で麺ばかり食べているが、そんな個人的な嗜好を知っているのは自分しかいないのだ。だからそういった。いってから、贈られた炒麺を引き寄せた。まだまだ食べられる。
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「いわれてみれば不思議だな。いくらなんでも四六時中南瓜女のことを観察できるわけはないし。まあ、何れにせよ怨恨の可能性もあるんだから注意をしておきたまえよ。麺に毒物などが盛られている可能性もある──」
鹿爪らしくそう忠告した直後、こちらをみて文升は唖然とした表情をした。南瓜女は口に含んだ炒麺を一旦止めたが、天井の扇風機を見あげながらやはり飲み込んだ。
「き、君は何でそんな得体の知れない食物に箸をつけられるんだ。大体それは四皿目だろう、一体どんな胃袋をしてるんだっ」
そう文升が喚くのをぼんやりと眺めながら、南瓜女は炒麺を長箸で弄んだ。炒麺は炒めた蕎麦である。
「でも……勘定はもう払ってるんだよね?」
「何とも貧乏ったらしい科白だね。南瓜女は腹八分目って格言を知らないのかい。いっておくけれども、僕みたいな大食漢に忠告されては御終いだよ」
一貫の、といいながら文升は机を小突いた。食器や調味料が悲鳴をあげて飛びあがる。その音で、何だか目が醒めた。確かにそうなのだ。実際これは食べ過ぎだとは思う。
そもそも何故、こんな怪しげな麺を無警戒に食してしまったのか。我ながらわけが解らなかった。何故だか麺が胃袋へ無尽蔵に吸収されていく。食べても食べても満腹中枢が刺激されないのである。寧ろ逆に、更に増幅された飢餓感が南瓜女を襲うのだ。
不機嫌な面持ちのまま、文升は油炸鬼(ヤウヅァグァイ)という細長い揚げ麺麭(パン)の残りを千切って皮蛋痩肉粥に入れていた。何時の間に手に入れたのだろう。この皮蛋痩肉粥とは皮蛋(ピータン)と豚赤身肉を入れた粥のことだ。そして漆黒の長箸でその茶碗を攪拌する。底に沈澱した皮蛋と豚肉が米と均等に混ざり合うと、とろとろのそれを実に美味そうに口に掻きこんだ。ピノッキオ鼻が邪魔そうで滑稽である。そのせいか、少しも美味しそうと思わない。
「……私のことよりも、文升」
まあいい。面倒なことは考えたくない。二皿目の贈答品に手をつけながら、南瓜女は上級生を三日月の双眸で捉えた。
「卒業は大丈夫なの? ……今度落第すると卒業出来なくなるんだよね? 厨房を覗いているとかいっていたけれど、もし見つかったら拙いんじゃないの」
「何だ、その話は南瓜女には関係がないじゃあないか」
珍しく渋面を作った文升を見て、少しだけ溜飲が下がった。
この雑劇学院の授業専攻は五つに別れている。表演系、導演系、舞台美術系、戯劇文学系の五項目がそれで、南瓜女と文升は創作の理論を学ぶ戯劇文学系を専攻していた。
そして先日、その戯劇文学系の最終卒業試験が行われた。文升は過去四回これを受けて、見事なことに四回全てを落第した。規定により、今回が最後の好機(チャンス)だ。今度落第すると雑劇学院を追い出されてしまう。
この雑劇学院では基本を四年、中級を三年、上級を二年の、計九年間をかけた一貫教育が施される。文升は四度留年しているから十三年間もの長期間在籍していたことになった。それが全て無効になるのである。
しかし、文升は何故か余裕綽々で笑った。
「厨房を覗くというのは、だから単なる好奇心だよ。卒業試験は終わったんだし、別に心配するような事柄など何もないのさ。それに、発覚する心配も全くない。何故なら僕は変装していたからだ」
「変装って……もしかして」
3
「その予感はあたりだね。僕は南瓜とお揃いの、南瓜の被りものを被って龍宮粥麺に忍び込んでいたのさ」
「な、何を勝手な──」
南瓜は愕然とした。文升はいいかもしれないが、自分に疑惑が持たれたらどうするのか。何という自己中心的な人間なのだろう。
「まあまあ、何かあったら僕が責任を取るに決まっているだろう。それに卒業がどうとかいうけれども、南瓜は知らないな? 今回は僕も危機を感じて一念発起したのだよ。二日に八時間の睡眠で必死に勉強をした」
「……嘘だね」
「何故嘘なんだよ。本当だって。その甲斐があって成績は向上したし、先日行われた筆記、実技の卒業試験ではどうやら中位の成績だったらしいのだよ。これで落ちる道理はない」
文升はそう豪語する。そんな自信が一体何処から来るというのか。南瓜は何だか猛烈な空腹を感じて炒麺を頬張りつつ、傍らに積んであった茶碗を一つ取った。そして急須から残り少ない烏龍茶を注ぎながら、口を開く。
「──卒業試験だけじゃ確定はしないんじゃないの?」
「ああ、確かにあともうひとつ卒業課題はある。それは、ルノワールとかいう古典画家が描いた絵画から、十分程度の簡易演劇を創作するというものだけれども」
「だったらまだ不安材料があるじゃない」
記憶ではその課題は確か、一週間に十二時間の時間を使って、合計六週間で卒業生全員分を発表させるものだったと思う。文升の班は今日発表をするはずだ。南瓜も下級生だからその発表会を観劇させられるらしいが、有り難迷惑な話である。
「けれどもね、もう卒業試験自体では及第点を取っているんだよ? 今日は唐副学長が役人と会うとかで不在らしいし、採点も絶対甘いに決まっているさ」
「……私は今一信用出来ないな」
「何なんだよ、何故そんなに徹底した悲観論者なのかな南瓜は」
文升は流石に憤慨したようにそういった。そして空になった急須を変えて貰おうと席を去ったときである。
龍宮粥麺の給仕が配膳台(ワゴン)を押してその隣をすれ違った。何だろうと通算六皿目の麺に取りかかりながら南瓜頭を突き出すと、突然後背からぬっと腕が伸びた。驚嘆して私が振り向くと、それは給仕だった。そして給仕はいきなり、机上の空皿を配膳台に回収し始めた。
──おかしい。
龍宮粥麺はセルフ・サービスのはずである。配膳台などという時代錯誤なものがあること自体知らなかった。南瓜はつと、機械人形に渡された麺のことを思い返した。
何だか嫌な予感がする。そして、その予感は残念なことに再び的中した。この給仕は六皿の大盛り麺を配膳し始めたのだ。店舗を含めた視野が狭窄する。これは一体何の趣向なのだろう。意味が解らない。謎の差出人は二回も贈物を送ってきた。すると今現在も、この食堂の中でこちらを監視しているということなのだろうか。
何だか眩暈を感じる。南瓜は椅子に座ったまま立ち眩みがした。茫洋と視線を店舗内に移すと、数人の学生達が不審そうにこちらを窺っている。瞬刻、その全員に対して切羽詰まった疑心暗鬼に駆られた。
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給仕が気味の悪そうな顔をして配膳し、去っていったあと、もう一度この状況を浚ってみる。これで贈答品は二度送られてきたことになった。合計十二品の大盛り麺だ。南瓜は最初、文升が大袈裟に深刻振るから天の邪鬼のように事態を軽視していたところがあった。しかし今は違う。恐ろしくて仕方がない。一介の学生に麺を食べさせて、差出人には何の利点があるのだ。
考えても一向に答えはでない。南瓜頭を振り、改めて机上を眺め渡した。炒麺、鮮蝦雲呑麺、湯麺、撈麺、河粉、米粉。御丁寧なことに献立表にあった麺が全て大盛りで並んでいる。物凄く妖しいのに、麺を見ていると勝手に腹の蟲が鳴いた。あれだけ食べたのに、唐突に食道の中が空洞になったような気がする。
──毒、かもしれない。
南瓜の理性が何かを警鐘している。なのに何故か、長箸で麺を掬っている自分がいた。新鮮なその蝦入り雲呑麺を眺める。意志とは無関係に大量の唾液が分泌された。食欲が湧いた。飢餓で胸郭が締めつけられる。
「……一口だけなら」
そんないい訳をしながら麺を口元に近づけて行き、結局頬張った。二口、三口、四口。気がつくと烏龍茶で無理矢理それを嚥下し、紅南瓜は鮮蝦雲呑麺全てを平らげていた。冷めない内に、などとまるで見当外れなことを考えて次に手をつける。止まらない。際限がない。一皿、二皿、三皿四皿。
何だか解らない内に再び六皿が補充されていた。机上には合計八人前の麺が積載されたことになる。ここで、体内に十三皿の大盛り麺が摂取されたことに気がついた。異常な量である。それにも関わらず、未だに満たされないのは何故だ。食欲は増進して行く。
朦朧模糊としながらも、漸く南瓜は恐怖を感じた。体温の上昇で顔面から粘着性の南瓜汁が垂れ始めている。その時だ。突然漆黒の長箸を取りあげられた。食事を中断された怒りが爆発して、反射的にその相手を睨みあげる。そこに肥満した紳士が立っていた。弛緩した光景、何だか正気に戻った。
「南瓜、一体どうしたっていうんだよ?」
汲んできた烏龍茶を片手に持ちながら、文升は気味悪そうにこちらを睥睨した。そんなことを聞かれても、自分にも何だか解らない。答えられずにいると、文升は机に載った新しい皿に気がついた。
「な、なんだこれは。また贈られてきたのかい。一体何で……」
「……また、給仕が」
「給仕がだって? では同じように特定不可能な乞食が注文して行ったわけか。それにしたって異常だ。差出人は絶対に何処かが狂っているよ。何回も何回も執拗すぎるし、そもそも一体何が目的なんだ。ああ、それにしたって南瓜は何でこの麺を食べているのかな、考えなしなのにもほどがある! ん、そうだ」
一通り自分のいいたいことを吐きだした後、文升は何かを思いついたようだ。机上の撈麺を手前に手繰り寄せた。その汁無し細麺を長箸で解し、ぐるぐると攪拌してゆく。そして硬直した。驚きの表情を張りつけたままピノッキオ鼻を掻く。何を見たのだろう。不安になる。南瓜は首を伸ばした。
「み、見るな南瓜」
慌てて制止されたが手遅れである。南瓜は見てしまった。麺の隙間に何かが埋もれているのを。それは正体不明の黒ずんだ塊だった。
──う、
その塊はまるで蟲のように蠕動した。南瓜は反射的に口を押さえる。と同時に胃の内蔵物が逆流し始めた。堪らず床に向かって嘔吐する。血の気が退いた。蒼白になって床に膝から崩れる。その吐瀉物の構成物質には胃液と野菜と肉しかなく、麺が消えていた。
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