WEB小説「憂鬱を育む蟲」~前置き~

WEB小説 本文

 一兆を越える銀河系によって構成されたその景観は、闇色に染めあげられた絨毯だった。闇色全体に、星雲という名を冠した刺繍が施されている。その刺繍の一つ、中央に座する恒星太陽を取り囲んで、天の川銀河太陽系は九つの惑星を有していた。その惑星群の間に一つ、濁っりきった青色の球体がある。低く垂れ込めた灰色の雲は、圧倒的な重量感を持ってその地表を覆い隠していた。

 清浄であった嘗ての面影は絶えて久しい。老朽化した地球は今、重苦しい停滞感によって全体を囚われていた。南極大陸は既にして溶解を始めており、それに伴った異常気象、燻り続ける民族問題や市場経済における構造的歪み、更には決定的な石油代替エネルギーの未登場など……世界には頭の痛くなるような問題が山積となっていた。二一〇〇年頃のことである。この時代において、他惑星への移民が俄に現実味を帯びてくる。

 それまでにも、宇宙開発に関して人類は飛躍的な発展を遂げている。例えば、移動手段が莫大な費用のかかるロケット機から宇宙船へと移行したこと、氷を利用した、月面での宇宙拠点開発が成功したこと、新素材の登場によって軌道エレベーターが実現したこと、宇宙望遠鏡(テレスコープ)、探査機などを使っての宇宙調査が発展したことなどがそうである。そして、宇宙進出の第二段階として行われたのが火星の惑星改造(テラフォーミング)計画である。

 米国航空宇宙局や、事業の独占をもくろむ大手企業などが参入したことによって、惑星改造計画は少しずつ現実味を帯びてきた。そして、この計画途上に起こった事件が人類史を大きく塗り替えることとなる。

 その科学機関は火星の上空に拠点を構え、ナノマシンを応用した惑星改造の実験を行っていた。その実験基地が、宇宙空間上に四次元的な穴を観測したのだ。その時空裂の向こうへ探査機を送って、更に驚嘆するような事実が判明した。

 探査機は、時空裂の向こう側に未知の銀河を見つけだしたのである。この銀河には、地球と酷似した一つの惑星があった。土星型惑星などとは違い、地球型惑星を構成する物質は宇宙でも〇.一%と稀少だ。その只でさえ稀少的な地球型惑星において、なおかつ大気構成や重力が地球と酷似した惑星が発見されたのである。更に驚くべきことに、この惑星には奇形の生命体がおり、原始的ではあるが文明を形作っていた。

 この惑星は発見者の名を取ってアンブロシアと名付けられた。その後の調査で解ったことだが、アンブロシアが属する銀河からは、既知の宙域を観測することが出来なかったという。このことから、ここが第二宇宙である可能性を示唆する天文学者は少なくなかった。停滞感の漂う地球にとって、この発見は大きな出来事だった。そして開始された惑星アンブロシアへの移民は、人類史の新たな幕開けとなる。

 この時、暫定的な世界組織として、世界宇宙移民機構が設立された。これが後の宇宙統治機関、『連邦』となる。世界宇宙移民機構の仕事は各国間の利害調節を計るというものだが、実質的には国家の一元化という夢物語のようなことを最終目標としていた。

 そして三十年後、『連邦』へと化けおおせたこの組織は、時空裂を人工的に作り出すことに成功した。つまるところ、人は跳躍技術を手に入れたわけである。

 時空裂は、複雑な規則にそって点と点を結びつけた。その際に存在した唯一明解な規則が、第一宇宙から第一宇宙、第二宇宙から第二宇宙への跳躍はできないということである。

 例えばだ。地球近郊に設けられた時空裂α1から、アンドロメダ星雲近郊に設けられた時空裂β1へ行きたいとする。この場合、必ず第一宇宙の時空裂α1を通過して、第二宇宙の時空裂α2へ出なければならない。そして、第二宇宙のβ2を通過することによって、漸く目的のβ1へと辿り着くという次第。

 実際はこれ以上に煩雑な航路設定を行う必要性があり、跳躍は御世辞にも手軽な交通手段とはいえないところがあった。とはいえ、それは充分以上に既存の物理学を覆す革新的な出来事である。そして、大多数の人間にとって跳躍技術は学問的な好奇心よりも、より実用的な技術としての対象だった。

 この跳躍技術開発の成功を嚆矢に、人類史は宇宙における大航海時代へと突入する。他惑星への移民者は特殊訓練を受けた知識階級の人間から、広く一般層へと移行していった。人が宇宙のなかでの活動地域を飛躍的に拡大させていくうちに、しだいに国家間の区別は意味をなくし、個々の文化は拡散して尚かつ変質してゆく。

 闘争と共存が際限なく繰り返され、宇宙の文化や価値観はさらに際限なく混沌に飲み込まれていく。『連邦』の謳歌は永遠のものではなかった。行政の腐敗は人類の不満と治安低下を導き、とうとう大規模な惑星独立運動が始まった。長期的な内紛の代償として、『連邦』は事実上形骸化する。それでもなお広範囲への統治力は健在であるが、かつての勢いは既に残っていなかった。

 この独立惑星の一つが、絳桃である。二つ月を持ったこの惑星は、地球時代における中華的な特色を多分に持っている。ここは移民中期に開拓された辺境の惑星だった。まだ人類が地球時代の文化区分を保有していた頃に、中華系の人間が固まって移民してきている。

 移民当初は活発に開拓が行われたのだが、次第にそれは衰退へ移っていく。豊富とはいえない資源が搾取し尽くされた後は他惑星から見向きもされなくなった。一応の独立は維持しているものの、貧弱な国力は近代化から絳桃星を取り残させた。むしろ退化さえ始めた文明が生み出した、ハイテクとアナログの混在した奇妙な世界観がそこにはある。中華系の民族を基調としながらも、印度系、白人、各種の異星人などが同じ都市で共生しているのだ。

 絳桃星は地球以上に表面積において海がしめる割合が大きい。そして唯一大陸と呼べるものの東端部に、王都長嘯(ちょうしょう)はあった。この長嘯には皇居が構えられている。絳桃星では、独立運動の主導者黄(こう)家による旧態依然とした王権制が取られているのだ。女王の黄玉卿(ぎょくけい)と、伝統的な演劇とが人民の全てを統治しているのだった。

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