WEB小説「憂鬱を育む蟲」~序章、蟲の跳梁跋扈~

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 そのとき、葉頴達(ようえいたつ)は蟲の跳梁跋扈する闇にいた。

 茹だるような蒸し暑さもあいまってか、頴達はまるで黒飴でできた泥濘にいるような錯覚を覚えた。幾ら払い除けようとも、不愉快な闇はねっとりと絡みついてくる。

 この濃密な深淵のなかで、四角く切りとられた薄明かりが浮かびあがった。勿論これは暗順応による錯覚にすぎない。その光源は窓のようで、鎧戸を開けた窓には幾条もの水滴がのたくっていた。それを見て、頴達は外が土砂降りの雨だったことを思いだす。

 どろどろと滲む硝子の向こうには、違法増築された露台を見ることができた。鉄柵によって縦に切り刻まれた世界を覗きこむと、薄汚れた高層ビルがそこら中に聳え立っているのが解る。密集した高層ビルは互い違いに橋を架設しており、世界は無秩序な模様によって塗り潰されていた。

 この寂寞とした景観のなかで、頴達は老朽化した屋上庭園を見咎めた。いつの時代に立てられたのかすら定かではなく、庭園は雨雲の低く垂れこめた世界にじっとりと沈みこんでいる。呆然とそれを見つめていたとき、明滅に遅れて雷鳴が低く轟いた。

 摩天楼を透かした硝子に、醜い顰めっ面が映しだされる。山高帽子を被ったその容貌には、深く彫りが刻まれていた。それが、まるで民芸品の木彫り人形のようなものを彷彿とさせる。木彫り人形が白縞のスーツを着熟し、所在なく佇んでいるさまは滑稽でしかなかった。

 顔にまとわりついてくる無数の羽蟲を払い除けたあと、頴達は踵を返した。漆黒の泥濘を掻き分け、現れた蜜柑色の簾を潜る。それに伴って、簾の南京玉が耳障りな音を立てた。

 部屋ではホロテレビジョンがつけ放しにしてあった。映像のなかで、女王が安っぽい熱弁を振るっている。たしか建国祭が翌日に控えていたはずだ。

 奥に目をやると流し台が目に入った。見るからに不衛生な食器が累々と積まれており、それをしまう食器棚は無造作に開け放たれていた。手前の食卓を見ればもっと酷い。部屋の主の、生活意識が微塵も感じとれなかった。

 ──まったく、酷いものだな。

 頴達は溜息をついてから、目の前にある冷蔵庫を見やった。その油で汚れた扉には、三年以上前の予定表や、胡蝶を模した磁石やらが貼りつけてある。

 失礼かもと一瞬は躊躇ったが、これも仕事のうちである。結局は開けて中身を見た。内から照らし出された庫内には、腐った食材が散乱していた。南瓜や卵、加工食品の残骸らしきもの。共通しているのは歪に変色し、異臭を放っているということだけだ。

 食材には例外なく黒光りする蟲が張りついている。頴達はいいようのない嫌悪感に襲われた。再び溜息をつきながら扉を閉めたときである。傍らの変色しきった壁面に、八卦鏡がかけてあるのに気がついた。

 心なしか外の雨音が強くなったように思う。蟲の羽音が喧しい。明滅に遅れて唸るような雷鳴が聞こえてくる。黙然とその八卦模様を見つめながら、頴達は不機嫌そうに眉を顰めた。──二三一二年、絳桃(こうとう)星でのことである。

「──まるっきり廃墟のような部屋だね。とても現在進行形で人が暮らしているとは思えないよ」

 威勢よく啖呵を切って、鷹は己の両翼を羽ばたかせた。そのままくぐもった笑い声をあげる。鷹とはいっても、人工知能を搭載した人面鳥型ロボットだ。奇天烈な電子眼鏡をかけたその人面鷹は、鎧戸のあげられた窓枠を宿り木にしていた。その体勢のまま、竹や獣皮によって組み立てられた全身を虚空に曝している。

 人面鷹の目の前には寝室があった。壁には木板が貼り巡らされ、暗がりに沈み込むようにして木製寝台が二脚並んでいる。手前には木彫りの姿見が立てかけられていた。姿見は、その豪奢な全身で女の姿を切り取っている。

 腰まで届く黒髪と、重たげに飾られた金冠、その絹服は極彩色である。絹地には、金粉を交え、龍や鳳凰などの神獣やら牡丹やらが描かれていた。

 顔面に施された厚化粧が能面のようで、表情がまるで窺えない。作り物めいて気味が悪い。年の頃は三十代半ばあたりだろうか。額に樹木のような質感を持った角が生やしてあるが、これによって退化した視力を補っているのだそうだ。彼女は頴達の案内人である。姓は黎(れい)、名は彗嫻(すいかん)、通称は黎小姐(シャオジェ)と呼ばれていた。

 今回頴達が捜査することになったのは、絳桃星、雑劇学院における連続失踪事件である。人面鷹が退屈極まりのない航海に費やした日数は一週間強。現場である絳桃星の宇宙港へ入港し、賭博場で遊んでいるときに案内人として現れた、それがこの黎小姐だった。

「──ひとつ聞いておきたいんだけど、黎小姐は風水のことに関してはどれくらいの知識があるのかな……」

 そう囀りながら、人面鷹は姿見の虚像から目線を逸らした。そしてエラの張った年齢不詳の顔でもって、室内の実像を見やる。黎小姐は角を反らして軽く考える素振りをしてみせた。

「そうだねぇ。一般的な知識程度なら持っているつもりなんだけど……」

「なるほど。絳桃星の一般的知識程度じゃあ話にならないから、一応念押ししておくけど、とにかく、民間習俗に深く根づいた風水と、科学における俗称風水、これらが全く違う存在だっていうことは強調しておきたいね。うちの捜査法はこの習俗風水と科学風水が混じり合っていて少し特殊なんだけども、基本的には後者に基づいているのさ。そこら辺りのこと踏まえた上で、理解ある協力を要請しておきたいな」

 歯をむき出しながらそう囀ると、黎小姐は肩を竦めた。

「わかったわ。一応はね。なんといっても、絳桃星から風水が失われてだいぶ経つからねぇ」

「そのようだね。──それにしても、ここは伝統ある雑劇学院、その学長夫妻だった者達の部屋なのかい……。荒れ放題だし、とてもそうは思えないな。学長夫妻の失踪っていうのは、一連の失踪事件のなかでも一番最初の事例なんでしょう……。居住者がいなくなったから、こんな廃墟みたいな有様になってしまったのかな」

「その見方は根本的に間違っているな」

 突然声がしたのでぎょっとした。振り向くと、山高帽子を被った壮年が寝室の入り口に立っている。何を調べていたのか、一通り部屋を見回っていた頴達だった。

「学長夫妻には息子がいてな。この部屋にはその息子と、夫人の父親とが現在進行形で暮らしている。今は外出して貰っているだけだぜ。廃墟みたいなのは、単にその保護者に生活能力が欠けているからだろうな」

 そう語り終え、頴達は黎小姐を押し退けた。そのまま寝室へ入り、天井の梁を睨みつけてここも最悪だな、と呟いた。

「最悪って……」

「これは、どちらかというと習俗風水的な見方なんだが──例えばあの梁だ。梁は天体の凶星からくる殺気をそのまま墜としてしまう、やっかいな代物なんだ。天体から注ぐ気には森羅万象を変革させるような強い影響力があるから、これは拙い。一時的な来客者なんかだったら大した影響は現れないんだけどな。生憎とここは寝室で、しかも梁の真下には寝台がある。つまり学長夫妻は、毎晩凶星の下で八時間近く過ごしていたということになるんだな」

「──へえ」

 何が好奇心の壺を刺激したものだろうか。黎小姐が、まるで学童のような熱心さでこの講釈を拝聴している。

「これで全部じゃあない。まだまだあるぜ。そう、例えばそこにある木製の寝台がよくないな。人は睡眠中に指先と髪先から生気を漏洩させ続けているんだが、木材はそれを全部吸収してしまうんだよ。その水差しの造花も、姿見だっていいとはいえない」

 なるほど、そう考えると確かにこの部屋は最悪な環境にあるようだ。

 人面鷹がそう心中で納得していると、頴達は鞄を床に投げだした。堆積していた埃が舞いあがる。この無雑作な扱いを受けた鞄のなかには、二枚の羅経盤が入っていた。他にも携帯用の電脳、筆、門公尺という定規などが収納されてある。これらは風水先生の七つ道具とでもいうべきものだ。

 例えば羅経盤は運勢の早見表である。水平な場所に置けば、図形と磁針を立体表示することができた。定規もあるが、これは「長さ」にも吉凶があるためだ。また、小型電脳には玉髄真経の情報が入力されてある。玉随真経とは書物のことだ。その日に起こること避けることなどが、個々人に対応して記してあった。

 羅経盤を水平な床面に置き、小型電脳の画面を馴れた手つきで操作しながら、頴達がそもそもな、と面倒くさそうにいった。

「そもそもこのビルは、立地条件からして良くないんだぜ。人面鷹、御前は気がついたか? この雑居ビルには東側に窓が全く存在しないんだぜ。何故だと思う? これはもともと東側に増築をする予定だったのに、建築業者の経営不振で頓挫したからこうなったんだ」

「ええ、そうだったのか」

 驚いた。妙な違和感は感じていたが、まさかそんな構造だったとは。

「風水学っていうのは、習俗科学を問わず景観のよいところが吉の学問だからな。基本的には景色がいいと運気も向上するという原則に従う。こんな街、引越してしまうのが上策だと思うがな」

「そんなに簡単には行かないだろう」

 頷きながら、頴達は床に置いた羅経盤を睨む。この羅経盤は円形である。漢字と放射線によって彩られた幾何学模様が、そこから立体で浮かびあがっていた。複雑すぎて何が何だか解らない。今時こんな旧式の羅経盤は実用性が伴わないものだが、頴達は一瞬でその情報を読み取ってしまう。この時も羅経盤から目を離さずに、早速感嘆の声をあげ始めた。

「なるほどな、副学長がいっていたとおりだ。この部屋の龍脈の流れには不自然なところがあるぜ。人為的に操作をした痕跡がある」

 いって頴達は羅経盤を片手に立ちあがった。それを黎小姐に渡す。黎小姐は受け取りながら黒髪を揺らした。白濁した双眸で、頴達をじっとりと覗き込んでくる。

「なんだい、羅経盤をあたしに渡して」

「あんたも大概暇を持て余しているんじゃあないのかい? 手分けをしよう。俺は玄関の風水を調べるから、あんたは人面鷹の指示に従って浴室を調べてくれ。なに、自分は素人だといった余計な心配は不要だぜ。あんたは情報を集めるだけで、分析する必要はない。それから注意して見て欲しいのは八卦鏡についてだ。学長は何か勘違いをしているようで、八卦鏡を室内に飾っているんだよ」

 室内にか、と、げらげらと哄笑をあげながら人面鷹は窓枠から飛び立った。八卦鏡は屋内に飾っても無意味だ。普通は玄関に飾って屋外の邪気を遮断するようにやる。それに、そもそも八卦鏡自体が風邪を引いた時の喉飴のようなもので、根本的な解決法にはなり得ないのだ。

 人面鷹はそのまま黎小姐の肩で羽を休める。一方その黎小姐は、風水師が早速玄関へと消えたのをみて呆れ果てていた。

「いやはや、あたしの意向も聞かずに。何とも身勝手な御仁だねぇ……。まあいいわ、確か浴室だったね。ここで突っ立っていても埒があかないし、さっさと行って用事を済ましちまおうか」

 苦笑しながらそう語りかけてくると、黎小姐はそのまま黴臭い廊下を挟んで向かいに設けられた浴室へ向かった。歩くたびにギシギシと耳障りな音がする。その廊下を行く途上であった。人面鷹は突然奇妙な臭いを探知する。

 その腐敗臭は、どうも浴室とは逆方向に設けられた扉から漂ってきているようだ。何だろうと訝る。不可思議な予感のようなものを感じた。少しくらい寄り道をしても構わないだろう。そう勝手に決めつけ、人面鷹はいきなり黎小姐の肩から飛び立った。先ほどまでの宿り木が不審そうにこちらを振り向いたが、それには構わない。

 暫く滑空し、辿り着いた木戸は腐りかけていた。そこには「夢周」と墨書をした名札がかかっている。中はどうやら子供部屋になっているようだ。ならば、学長の一人息子の部屋だと推測できる。鳥型の己にとって都合のいいことに、扉は開きかかっていた。

 少し躊躇したが、確かに異臭はこの部屋から漏れて出ているのだ。人面鷹は意を決して隙間を覗いた。そして、そこから飛び込んできた非現実的な様相に口腔を大きく開く。そのまま、何だこの部屋と漏らしていた。

 その部屋には、立錐の余地もないほど大量の蟲駕籠が積みあげられていた。駕籠のなかでは一つの例外もなく胡蝶が飼われている。紋白蝶、揚羽蝶、人面鷹にはそこら辺り有名な胡蝶の名前しか判別できなかったが、異様な数であることだけは明らかだった。棚には花を生けた植木鉢が並べられている。壁面を飾っているのは、高額そうな額縁に囲われた胡蝶の標本だ。

 そして、更によくよく観察してみるうちに、人面鷹は蟲駕籠のなかに死骸が転がっているものが多いことに気がついた。異常なのはその有様だった。どれもこれも、およそ尋常な死に方をしていない。羽根を引きちぎられ、駕籠の内壁に体液をぶちまけている。

「何勝手なことやってんだよ人面鷹、あたしだけじゃあ羅経盤の使い方が解らないじゃないか──」

 文句を垂らしながら近づいてきた黎小姐も、人面鷹越しに部屋を見た瞬間、棒を飲んだようになって硬直した。押し黙ったまま、説明を求めてこちらをみてくる。勿論のこと人面鷹に答えられるわけもない。そもそもここは本当に学長子息の部屋なのだろうか。もしそうだとしたら、全くとんだ蒐集癖だ。今時珍しいくらい子供らしい趣味ではないか。

 豪雨に濡れた窓を背負い、駕籠のなかの胡蝶が小刻みに羽根を動かしてる。そこから撒き散らされる鱗粉が、人面鷹にはこの上なく不浄なものに思えた……。

「──あれ……」

 それに最初に気がついたのは黎小姐だった。合間を置かず、人面鷹もそれに気がつく。それは聞こえるか聞こえないほどの雑音だった。しかし間違いはない。居間のほうを振り返ると、頴達が銜えた鉛筆の苦さに口を歪めている。そして不機嫌そうな仏頂面をしたままこう呟いた。

「──悲鳴が聞こえるな」

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