1
幾ら待っても、その呼び出し音が途切れることはなかった。半ばは予想していたことなので、紅南瓜は別段に落ち込むことはなかった。無言のまま、受話器を公衆電話のフックへかける。
視線をその受話器から逸らすと、そこには室内から漏れた空調機の冷気で冷えた、廊下が広がっていた。
香港人は総じて、空調機は空気を綺麗にすると言う迷信を信じているような傾向がある。空調機の吐き出す冷たい空気が清潔な雰囲気を醸し出すように感じられるところや、香港の異様なまでに汚れきった空気などの土壌からこの迷信は来ているのだろうが、お陰で夏場にも関わらず室内では上着がないと過ごしにくい。
この廊下を見遣りながら、紅南瓜は電話のことを考える。これで電話をしたのは一体何回目になるだろう。自宅には誰もいないようだ。留守番電話に一応はことの子細を録音しておいたが、あの自堕落な生活をしている両親がわざわざ確認をするのは何時のことになるだろう。
──自分の子供が殺されたって言うのに
こんなところで鬱屈としていても仕方がない。紅南瓜は刑事に指定された待合室へと戻ることにした。その際に、黄色い立入禁止のテープによって封鎖された男子用便所の様子が目に入る。
湿ったタイル、手洗い場の水道管からはポタリポタリと水滴が垂れている。黄ばんだ小用便器が整然と並んだ傍らに、紺色の制服を着た人間がせわしなく蠢いている。その中心に、鑑文升の死体は転がっていた。タイルを伝って血糊が水気に溶けている。
「…………」
何時まで鑑文升はあそこに転がっているのだろうか。あの鑑識が現場検証を終えて、漸く検死に回されるのかも知れない。
そんなことを茫洋と考えながら馬鹿みたいに便所の前で惚けていると、鑑識員がこっちを見てきた。紅南瓜は咎められたような気がして、そそくさとその場を立ち去る。
そして廊下の突き当たりを曲がり、さっきまで自分がいた待合室に戻った時、紅南瓜は待合室から人が消えていることに気がついた。あの龍脈公司の山高帽子を被った風水師や、副学長、黄女王が姿を消していた。
急に、取り残されたような不安になる。自分が席を外しているうちに、皆何処か別の場所へ移動してしまったのだろうか。だとしたら、自分はあとであの刑事に叱責を食らう可能性がある。
少し錯乱しながらも、取り敢えずさっき自分が座っていた長椅子へ腰掛ける。
皆、何処へ行ってしまったのだろう。確かに自分の存在感は希薄だが、一応はこの事件の一番の当事者なのに。屈折した劣等感に押し潰されそうになっていると、衣装室から声が聞こえた。どうやら、取り調べそのものはまだ続けられているようだ。
それで少しだけ安心する。
声の片方はあの黒頭巾を被った刑事、もう片方はどうやら女性の声のようだ。その声の調子から察するに、どうやら二人は言い争っているらしかった。
「ああもう我慢できない! 何なんだよ君は」
「と言うと? どういうことかしらね」
「惚けるんじゃあないよ。少し供述したかと思って別の質問をしたら、すぐにそれと矛盾した証言をし始める。それを問い質せばまた黙認か異なった供述をすることの繰り返しだ。巫山戯ているんじゃあない。何だい、ひょっとして虚言癖でもあるのかい」
言って、どうやら廬応京らしき声は溜息をついた。
「もういい、君から話を聞いていたって時間の無駄以外の何物でもないことが漸く解ったよ。少し気がつくのが遅かったけどね。我ながら迂闊だった」
「まだ取り調べは途中だろう? 刑事がそんな適当なことで──」
女性が皆まで言い終える寸前に、衣装室の門扉は乱暴に開け放たれた。そしてそのまま、角の生えた女性が廬応京の手によって押し出される。紅南瓜の朧気で不確かな記憶によれば、女性は、あの葉頴達と同じ龍脈公司の人間のはずだった。
「ちょっと、解ったから押さないで欲しいね。自分で出るよ」
「何処までも憎たらしい態度を崩さないね、君は──」
2
そこまで言いかけて、廬応京はすっと黒頭巾に隠された表情を変えた。そして驚いたように待合室を見渡し、それから大声を上げてがなり散らした。
「ど、どういうことなんだ。何故誰もここに残っていないんだよ。取り調べはまだ途中なんだ! 代理学院長も、雑劇学院の教師も、龍脈公司の葉頴達は──最初からいなかったか。いや、それでもこれは一体何なんだ」
廬応京はいらいらとしている。それよりも紅南瓜は、自分の存在が完全に忘れられていることに悄然とした。一頻りぶつぶつと独り言を言い終えた後、廬応京ははっとして後ろの女性を振り返った。
「まさか、あんな風に巫山戯た態度をとっていたのはこの悪ふざけの片棒を担いでのことだったのかい」
「何の事かしら」
「惚けるんじゃあないっ。黎彗嫻、君を始め一体龍脈公司の連中は何を考えているんだ。そうか、これは全部葉頴達の企みだね。僕を虚仮にしているんだ。それにしたって一体何が目的なんだ。唐淵明まで連れ出すなんて迷惑も甚だしいよ」
言ってから廬応京は憎悪に満ちた双眸で黎彗嫻と呼ばれた女性を睨んだ。
「私は何も知らないよ。勝手に人に責任を押しつけないで欲しいね」
「何だって、大体──」
南瓜女にはその後の言い争いの内容が聞こえていない。急に、声が意識から遠ざかる。最初は何故かは解らなかったが、暫くしてからその理由が明確になり始めた。
後背から、人の争う物音が聞こえてきたのだ。
廬応京と黎彗嫻のやりとりのような生やさしいものではない。そこには鬼気迫るものを感じた。物音の発生源は一体何処だろう。南瓜女は、本当はそれが解っている。ただ、考えたくないから、その物音が鑑文升の死体が放置してある便所から聞こえていることに気がつかないふりをしている。
しかし、それにも限度というものがある。
断末魔の悲鳴が聞こえたのだ。
たぶん、それは断末魔なのだ。
「あ……」
南瓜女は短く呻いて、廬応京と黎小姐の注意を引きつけようとした。最初は南瓜女のことが眼中になかった二人だが、漸くその異様な物音に気がついたらしく、こちらを見遣ってきた。
「な、何だ。何か変だよ。この雰囲気は何なんだ。おい君、この物音は一体、何をやっているんだ」
「私にも──」
それだけを言って、南瓜女は便所のほうを見遣った。そちらで何かが起こっている、ということを表したゼスチャーのつもりである。しかしそれではいまいち意味が通じなかったらしく、仕方がなく南瓜女は声に出してこういった。
「鑑文升の死体がある便所から聞こえてきているみたいだけど」
「何だって?
まさか!」
廬応京はそう言った後、先陣を切って廊下を走りだした。かつかつと跫音が遠ざかっていく。何か心当たりでもあるのだろうか。
南瓜女と黎小姐は一拍おいた後、その後を追い掛けて走り出す。曲がり角を曲がり、視線をあげると、そこには呆然と便所の入口に突っ立っている廬応京の姿があった。
「これは……」
「何だい、いったいどうしたって言うんだい。一人だけ驚いているんじゃあないよ」
もどかしそうにそう言って黎小姐が廬応京をどかして便所を除くと、同じように絶句してしまった。南瓜女も気になってその後ろから中を覗き、同じような反応しかできなくなった。
3
便所そのものはさっきと代わり映えはしない。相変わらずのアンモニア臭が漂っている。便器は同じ位置で佇んでいる。
しかし決定的に違うのはその景観ではなく、人間の様子だった。便所の中には、鑑識の人間が突っ伏して倒れていたのだ。死んでいるのか、気絶しているのかは解らない。しかし、少なくとも無傷ではないことは確かだ。その頭部から、どくどくと血が流れ出ている。そして──
「し、死体が。鑑文升の死体がない。どこかへ消えてしまった! こんな馬鹿な話があるか!」
南瓜女は、その廬応京の叫び声を聞いたとき、初めてそのことに気がついた。何故か、言われるまでは気がつかなかった。そう、確かに便所の床に寝転がっていたはずの鑑文升がいなくなっていたのだ。血糊の後だけがその痕跡を残している。
鑑文升がいたはずのそこには、何故か蟲の死骸が転がっている。
「何が起こったのよ……」
黎小姐が呆然としている。廬応京は慌てて応援を読んでいる。紅南瓜は──
──そんな
紅南瓜は恐怖していた。鑑文升は一体何処まで自分の精神を滅茶苦茶に掻き回せば気が済むのだろうか。
「おい、何やってるんだよ。役立たず! そんなところで眠っている暇はない! 一大事だ! 死体が盗まれたんだ!」
そう喚きながら、廬応京は気絶している鑑識員を蹴飛ばした。瀕死の鑑識員は苦しそうに一言呻いた。一応は、意識が戻ったようである。
その滅茶苦茶な行動を見遣りながら、紅南瓜は今更ながら気がついた。そう、死体は盗まれたのだ。それなのに、何故か自分は鑑文升が自分で何処かへ行ったような錯覚を起こしていた。未だに死んだ事実が認識できていないのだ。
それにしても、今の争う音は一体何だったというのだろうか。鑑識員が倒れているところを見ると、犯人はまず邪魔な鑑識員を気絶させてから、この便所から鑑文升の死体を持ち去ったと言うことになるが……。
「うう、」
その鑑識員は苦しそうに呻いて漸く起きあがった。それを更に廬応京が責めようとしたが、それを黎小姐が制した。
「何だよ、民間人の癖に出しゃばっているんじゃあない!」
「好い加減にしなよ。あんたそれでも刑事なのかい? この鑑識員の責任を追及するよりも、まず聞いておかなくっちゃあいけないことがあるだろうに」
「な、何だってっ」
黎小姐はそれを無視して鑑識員に向き直る。そしてもっともな質問を投げかけた。
「一体、何があったんだい。具体的に、覚えている限りを聞かせて欲しいわね」
「それは──」
その時、鑑識員は鑑文升の血糊を採取し、現場に残っている指紋を採取していた。それが、突然、後頭部に衝撃を感じた瞬間、意識が飛んでしまったのだと言う。
「つまり、犯人に殴られたわけだね」
「けれど、それはおかしいな。僕の記憶によれば、警官の配置には全く問題がなかったはずだよ。このさっき聞いたけど、この廊下に近づいた人間は存在しないんだ」
廬応京は何とも不満げな表情をしている。それをうけて黎小姐が頭をかく。
4
「するとどう言うことになるのかしら。犯人が何処からともなくドロンと便所の中に現れて、しかも都合よく三人の鑑識員の背後に回って、一瞬の隙を急襲して死体もろとも便所から消え去ったと? そんな馬鹿な話はないわね」
「何だよ。遠回しに言っているけど、僕の指示が間違っていたとでも言いたいのかい? 警備員が便所の監視を怠っていたと。僕の配下に限ってそんなことはあり得ない」
「警官の怠慢以外に、じゃあ他に何が考えられるってのさ。まさか鑑識員に犯人の一人が化けていたとか、個室便所の中に隠れていたとか……? どっちにしたって荒唐無稽な案しか考えられないね。そしてこの方法だって、結局のところ警官の前を通らなければ逃げることは出来ないんだ。しかも死体を抱えて、そんなことは不可能だわ」
「…………」
廬応京は歯噛みしている。それを見遣りながら、紅南瓜はつと、葉頴達の言っていたことを思い出した。
──換気口か、換気口に
「換気口……」
「え?」
そう言って、二人の奇人は振り返った。そして今度は便所の天井を見上げる。最初に行動したのは廬応京だった。急いで壁際に駆け寄って、その換気口を睨みつける。
「血痕だ」
「何だって? つまり、犯人はここから入ってここから死体もろとも消え去ったって言うの? 何だか不自然だわ」
「けれども他に考えようがないからね。おい!」
言って、廬応京は後背で待っていた警官を見遣る。そして換気口を指さす。
「換気口だ。換気口を大至急封鎖するんだ。逃がすんじゃあないよ、今ならまだ間に合う。あんな巨体を連れて、簡単に逃げられるはずがないんだ。あと、龍脈公司の連中の身柄確保も忘れるんじゃあないよ。あいつらは重要な参考人だ!」
「ちょっと待ってよ。どうして郭先生がそんなことしなくっちゃあならないのさ。もっとも怪しいのは、龍宮粥麺の法之協のほうだろう?」
「その法之協が犯人だと言っているのは龍脈公司の葉頴達だ。どっちにしたって重要参考人には違いがないんだよ」
「どうして──」
二人が不毛な口論を続ける中で、王憶蓮はぽろりとそう零した。
「どうして、哥哥の死体なんかを持ち出したんだろう」
廬応京と黎小姐は惚けたような顔をした。
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