WEB小説「憂鬱を育む蟲」~第三章、蠧魚(とぎょ)の染み1~

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 夜空の黒雲が、強風に吹かれて流れている。それが黄色く浮かんだ満月の輪郭をぼかしていた。眼前の猿仮面を睨みつけながら、葉頴達は銜えた棒を噛み砕く。

 心が高揚しているのが解った。濁っていた世界が、急に清められたような気分になってた。気のせいかどうかは知らないが、視力がよくなった気さえする。

 決定的な言葉を投げつけたつもりだが、何故か猿仮面は動揺しなかった。そして落ち着いた様子で語り出す。

「……何を言っているのか解らないな。身の覚えのない疑念を持たれても、迷惑なだけだ。誰だその法之協って言うのは。私と同じで、顔が猿の形をしているのかな? 自分の知っている人間は誰でも知っていると思ったら大間違いだよ」

「それは精一杯の虚勢と受け取るぞ。満更根拠のない当て推量でもないんだ。聞けば、王憶蓮は献上品の送られてくる数日前から龍宮粥麺に通い詰めていたそうじゃあないか。そうなんだろう?」

 そう言って王憶蓮を見遣ると、頷いた。そのまま猿仮面に向き直る。

「だから何なんだ」

「まあそう焦るなよ。これで己等が考えたのはな、龍宮粥麺の麺に、もとから食欲増進剤か、依存性のあるドラッグの類が混入されていたのじゃあないのか、って事だ。毎日だぞ。そんなこと、一般客や常連客じゃあ少し難しい。それでもっとも怪しいのが龍宮粥麺の料理長って訳だ」

「──面白いな。その適当な当て推量のことだがな。仮にそうだったとして、何処にそんな証拠があるって言うんだ。料理長でなくても、下の料理人にだってそんなことは出来ると思うが」

「だから言っただろう? そんなに焦らなくても大丈夫だ。己等の掴んでいる情報はまだあるんだぞ」

 葉頴達は笑う。余裕のあるところを見せつけてやった。

「聞くところによると、この女学生、王憶蓮の義兄、鑑文升って奴は法之協のことを何かと嗅ぎまわっていたそうじゃあないか。何だか知らないが、法之協がゾンビを作っているとか言う荒唐無稽な噂を信じ込んで。子供だよな」

「…………」

「そこで鑑文升は一度、法之協に見つかりそうになった。その時に法之協は、見られてはいけないものを見られたんじゃあないだろうか。そして勘違いをした。鑑文升と、王憶蓮のことを」

「あっ」

 王憶蓮が驚いたような声を上げた。葉頴達はその南瓜頭を眺めやる。

「何故なら、この鑑文升って奴は厨房に侵入した時、容貌を隠すために南瓜提灯を被っていたからだ。それでたぶん、王の姓だけが解ったんだろう」

「根拠がない。飛躍しすぎだ」

「信憑性は高いと思うけどな。でもまあ、それはその猿仮面を剥がせばはっきりすることだぞ」

 言って、葉頴達は更に躙り寄る。猿仮面が刃を王憶蓮に向けた。

「これで御前はお終いだ。社会的地位も何もなくなる。素直に観念して、その女学生から離れたらどうだ」

「御前は、御前は何も解っていないっ」

 猿仮面は両腕を使って熱弁し始めた。目に見えて動揺し始めている。カマを掛けたつもりが、何て解りやすい反応なんだろう。更に畳みかける。

「何焦っているんだよ。観念したのだったら猿仮面を脱げよ」

「この世には、社会的地位なんてどうでもいいような恐怖が存在するんだ! 私はその恐怖を取り除くために一生懸命努力をしているのに、何故皆してそれを邪魔しようとするんだ。私を邪魔して苦しむのは結局自分なのに!」

「──どう言う意味なんだ?」

 葉頴達は眉を顰める。解らない。猿仮面は一体何を恐れているのだ。そう注意がそれた瞬間である。追いつめられた猿仮面は王憶蓮に刃を向けた。

 葉頴達ははっとする。そのまま刃は王憶蓮の首筋へと近づいていく。猿仮面は自暴自棄になっている。このまま王憶蓮を殺すつもりだ。

 ──不味い。

 調子に乗って追いつめすぎた。覚醒剤のせいで、何時もの感覚が狂っている。駆け引きがまるでなっていない。

 一瞬反省したが、その次の瞬間葉頴達は走り出していた。走りながら、ろくな照準も定めずに猿仮面を拳銃で撃つ。しかし猿仮面は倒れない。仰け反りながらも、王憶蓮に肉薄する。

 ──はあ?

 葉頴達は錯乱する。

「何で死なないんだよ! 御前は不死身か!」

 怒鳴りながら、漸く気がついた。さっきから奇妙だとは思っていたが、猿仮面は防弾チョッキを着込んでいるのだ。何て用意周到な犯罪者なんだろう。

 それにしたって、これはマグナム弾なのだぞ。そんなもの貫通するなり肋骨を折るなりしているはずなのに、その頑丈さは超人じみていた。

 でも、それならそれでやりようは、ある。葉頴達は構わず撃ち続けた。

 ──あと一発だ。

 猿仮面がまた仰け反る。流石に負傷をしたのか、蹌踉めきながら手摺から落ちそうになる。その手には王憶蓮の腕が握られていた。刃は戒めを説いていた。

 葉頴達は舌打ちする。これが目的だったのだ。王憶蓮が猿仮面ともどももんどり打って落ちようとする。恐怖のせいだろう、王憶蓮は陰鬱な悲鳴を上げた。それが夜の静謐に木霊する。

 一体、そこまでして王憶蓮を殺さなければならない理由は何なのだろうか。猿仮面は一体、何を見られたのだ?

 葉頴達は手摺に漸く辿り着く。

 しかし間一髪で間に合わなかった。その時には既に二人は空中に身を躍らせていたのだ。王憶蓮の南瓜頭が虚ろな笑みを浮かべている。少なくとも葉頴達にはそう見えた。

 しかし焦らない。これこそまさに覚醒剤のお陰なのだろう。妙に頭が冴え渡っている。すべての映像が、まるでジョン・ウーの映画のようにスローに見えた。葉頴達の心の中では、今、ここは教会で、数羽の白鳥が飛んでいる。

 拳銃を構え、今度は照準を定めて引き金を引いた。その最後の弾丸は、一瞬の間の後に猿仮面の腕を撃ち抜いていた。そのまま猿仮面の腕は血煙をあげて吹き飛ぶ。王憶蓮の体が自由になったのを見計らい、その反対の腕をひっつかんだ。

 一瞬の間をおいて、物凄い重さが肩を襲った。激痛に顔を蹙めながら、葉頴達は必死に踏ん張る。

 支えを失った猿仮面は転落していく。その表情は悔しそうだった。

 葉頴達は勝ち誇った笑みを浮かべてそれを見下ろす。その滑落していく猿の顔面が奇妙な形に歪んだ。それは一見するとよく解らないが、どうやら笑みのようだった。

 ──何故、嗤う?

 葉頴達は手摺から身を乗り出した。王憶蓮の重みを必死で支えながら下を覗く。猿仮面は既に暗闇に消えようとしている。その境目で、驚くべきものを見た。

 猿仮面は右腕を伸ばしていた。するとそこから、嗅ぎ爪のついたワイヤーが伸びたのだ。そのワイヤーを隣接した大廈の屋上に引っかけ、猿仮面は漆黒の闇に消えた。暗いから、落ちたのか、それともよじ登って逃げたのかが判然としない。

「な、何て奴だ。喩えるならバットマンかルパン三世みたいな奴だなあ。人間離れしている、と言うか子供染みているな」

 呆れたように呟いた。猿仮面はそのまま見えなくなった。結局猿仮面は逃げてしまった。最後の最後まで、準備万端な奴だった。

 仕方がないので、葉頴達は視線を逸らして中空の王憶蓮を必死に引き上げた。そしてそこで気がついた。王憶蓮の南瓜頭、、その双眸の焦点が定まっていない。何処から虚空を見つめて呻いている。

 何か、異様だ。精神的な障害を受けたのかも知れない。葉頴達は王憶蓮に向かい合い、その肩を揺さぶった。王憶蓮は葉頴達ではなく、何処か一点を文字通り食い入るように見遣っていた。

「何なんだ、一体何を見ているんだよ。もう猿仮面はどこかに消えたんだぞ」

「ば、化け物が……化け物がそこで嗤っている!」

「化け物だって?」

 眉を顰めて王憶蓮の視線を追う。そこには胡蝶が一匹、中空に待っているだけだ。

「何だよ、何にもいないじゃあないか。何を言っているんだ御前」

「い、いない? いないって、そこにいるじゃないっ」

 王憶蓮は狂ったように喚き散らした。そこで、先程から握りしめていた猿仮面の手首に気がついた。悲鳴を上げてそれを屋上へ投げ捨てる。猿仮面の手首は屋上の地味な景観で、不思議な印象を与えた。

 葉頴達は一抹の薄気味悪さを感じながら、首を傾げて王憶蓮の様子を見やる。胡蝶の何処が化け物だというのだろうか。

 そこで思い立った。この女学生はどうやら幻覚を見ているようだった。覚醒剤を決めたのは葉頴達なのに。

 ──何なんだよ、こいつは。

 そこに見覚えのある若者が現れた。黒頭巾を被ったその若者の顔面には、白粉を塗りたくって化粧がされていた。香港警察の刑事、廬応京だ。何を見ていたのだろう、しゃがんで床面を注視していた廬応京は、驚愕の表情をして葉頴達を見上げた。葉頴達も口を大きく開けて大声を張り上げる。

「ああっ! 御前は賭博場であった刑事じゃあないか。何やっているんだよこんなところで。ああそうか、そう言えば雑劇学院の失踪事件を捜査しているだとか言ってたっけかな」

「僕が何の事件を捜査していようが君には関係ないだろう。何をやっているって、それはこっちの科白だよ。不審な奴だな、いいかい、」

 廬応京が何かを忠告しようとすると、葉頴達は飄々と笑みを浮かべた。

「──まあいいや、これは好都合って奴だぞ。実はさあ」

「ちょっと待ちなよ五月蠅いな。君さ、人の話聞く気があるのかい」

「ああ、何を見ているのかと思ったらこれのことかい? 小姐の名前は確か君は王憶蓮って言ったよね。この死体がどうしたっていうんだよ。あ、そうだ、もしかしてこの如何様風水師の仕業何じゃあないだろうね。如何にも人殺しをしそうな、適当な顔をしているし」

「冗談じゃあないぞ」

 葉頴達が別に気分を害した様子もなく文句を言った。そして階下にいる廬応京のことを指さす。

「勝手に決めつけて犯人扱いするなよな。こいつは鑑文升って名前で、この王憶蓮の義兄だ。これをやったのは別人だ。そう、あんたが探している人間の仕業なんだぞ」

「──それはどう言う意味なんだ。僕が探しているって」

 廬応京は不審そうにした。

「あんたは刑事で、失踪事件の捜査をしているんだろう? この犯人と、失踪事件の犯人とは同一人物だ。ついさっきもまた一人人間が失踪しようとしていた」

「回り諄い言い方をするね、頴達は。つまりこの女学生が殺されようとした、と言う意味なのかい? 確かに狙われているとか言う趣旨のことは言っていたけど……」

 廬応京は口を尖らせて、横目で王憶蓮の方を一瞥する。まるでこんな奴を殺して何の特をするんだとでも言っているようだ。そんなこと自分が一番疑問に思っていることだ。放って置いて欲しい。

 廬応京は視線を元に戻すと腰に手を当て、葉頴達を見上げた。

「で、その根拠のない戯れ言を信じるとしても、その犯人は一体何処へいったんだよ。そうやって無事にいるところを見ると捕獲したのかい?」

「いいや、逃げたよ。とんでもない執念だったぞ。だからな、もしかしたらまだここら辺りに潜伏している可能性もある」

 葉頴達がそう言うと、廬応京は憤慨したように黒頭巾を揺らした。

「逃げただってぇ? 何だよ、それじゃ意味ないじゃないか。折角抜け駆けして手柄になるかと思ったのに、期待させるだけさせてそれはないだろ」

「勝手な期待を押しつけて、贅沢言っているんじゃあないぞ。何も解らないよりも数段ましだろうが。一応は犯人らしき人物の名前は解ったんだぞ。解ったというか、己等の推測なんだけどな。一応、一番疑わしいのは龍宮粥麺の料理長、法之協って奴だ。猿仮面を被っていたから確実なことは言えないんだけどな。そして重要なのがこれで、この女学生は今でも命を狙われているんだよ」

 縦縞模様の入った背広に拳銃を仕舞ながら葉頴達が言うと、廬応京は疑り深い目つきになった。

「何でそんなことまで解るのさ。責任逃れのために出鱈目を言っているんじゃあないだろうね。だいたいその拳銃は何なんだよ。発砲したのは君かい」

「ああそうだぞ。命中もした。己等は職人芸的な腕で猿仮面の右手を吹き飛ばしたんだぞ。仮面の下は見ていないが、たぶん明日、龍宮粥麺に法之協は現れないだろう。手がないと一目瞭然だからな」

「まあ、そりゃ確かに明日になれば明白になるけどね。それはともかく、一般人がそんな物持ち歩いていいとでも思っているのかい。拳銃を」

「よく言うなあ。自分だってこの拳銃使って違法賭博に参加した癖に。取り締まるんならその時にしろよ」

 そのつぶやきを無視して、廬応京は携帯電話を取り出した。そうしてそのまま会話を始める。どうやらその口振りから想像するに、警察に応援を要請しているようだ。

 当然の行動だろう、と王憶蓮は思う。殺人事件が起きたのだから。きっと、電視で何時も見るような鑑識だとか捜査員だとかが大挙してこの大廈を埋め尽くすのだ。鑑文升の身体は、司法解剖だとかをされて、手術台で切り刻まれるのだろう。

 電話を切り、携帯電話を安っぽいポロシャツの懐中にしまいながら、廬応京は葉頴達を見た。

「君、名前は確か葉頴達だったよね。職業は何だっけ」

「冷たい奴だなあ。賭博場で自己紹介した時にちゃんと言っただろう。己等は風水師だぞ。風水事務所の龍脈公司ってところに勤めている」

 すると何故か廬応京は瞠目した。そして次に笑みを浮かべ始める。

「──風水事務所の龍脈公司だって?」

 その瞬間、ガシャンという音と共に停電が解除された。電気の光源が廊下を走っていく。呆然とその光景を眺めていると、廬応京は階段の下へ消えていた。

「おい、待てよ応京。何処へ行く気なんだ。ちゃんと質問に答えるんだ。何で御前みたいな子供と郭先生に接点があるんだよ。到底信じられないぞ」

「気安く人の名前を呼ばないで欲しいな。子供扱いするのは勝手だけどね。聞きたいんだったら郭鵬挙本人に聞けばいいさ。でもいいかい、勝手にこの雑居大廈から出るんじゃあないよ。調書を取るからそこで待っていろよな」

 それが捨て台詞だった。葉頴達は拳銃の薬夾を銜えている。次第に暗闇に消え去っていく廬応京の後ろ姿を、王憶蓮は茫洋と眺めやっていた。

 *

 非常階段の証明に照らされて、山高帽子を被った壮年と、南瓜頭の女学生が馬鹿みたいに佇んでいる。微かに開いた非常扉の隙間から、それを嘲笑うかのように眺めやっているのは巨大な壺だ。木製の蓋と、その壺との隙間からは、少年の双眸が覗いていた。

 少年は名を戴夢周と言う。少年は暫くそれを見つめた後、蓋を閉じて壺の中に隠れてしまった。そのまま、気配が消え去る。動くのは周辺を飛び回る胡蝶だけとなった。

 この壺を窓から差し込んだ陽光が照らし出す。胡蝶の撒き散らした鱗粉が綺羅綺羅と明滅し、壺の影が縦に長く、非常階段を走っていった。

 窓が方形に区切ったキャンバスの中、何時の間にか空はすっかり白んでいる。黒色の絵の具が水色の絵の具に浸食されて、その色を歪め始めていた。天蓋の底から顔を出しているのは太陽だ。

 この後二日続く王憶蓮にとっての災厄だが、今、漸く一度目の夜が明けようとしているのだった。

 スクリーン上に、絳桃星の青い球体が浮かび上がっていた。

「そうだ。ところで──いきなり不躾なことを尋ねるが、その義手はどうしたんだい? 今時再生治療を受けないなんて珍しいな」

「確かに不躾だ! まあ──確かにこの義手は使い勝手が悪い。が、しかしですな、人体を精巧に模倣した電子義手は入手が困難であると同時に、何より高額で維持費が馬鹿にならない。生物工学での再生なんて尚更にですな。当時の私には手が出るはずもない!」

 さて、葉頴達が身を任せたイーグル号の後尾には、薄暗く、とっくの昔に減価償却を終えたような推力室がある。そこにはどこか不釣り合いな最新型跳躍装置が、AIの命令に応じて起動をしはじめた。それとともに、艦船の直線上で空間が歪み、広大な宇宙空間に円盤型の穴が表れる。これを風水用語で龍穴といった。

 龍穴の中では、まるで万華鏡のように色彩がうねっている。この中の仕組みがどうなっているのか、最先端の科学でも未だ確実なことは解っていない。人間に出来るのは、どこへ龍穴を開ければどこへ龍穴が現れるのかを推測し、実証して、複雑怪奇な龍脈網を少しずつ体系化していくことだけだ。そしてその中から脆弱な規則性を見いだしていく。

 周辺の宇宙空間が揺動している。龍脈のなかで気が波打っていた。龍穴は跳躍装置に共鳴して一気に拡大する。そのまま、イーグル号は黒龍の開けた口蓋の中へと呑み込まれていった。

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